#2 不識の境地

以前見たテレビからです。
たぶん、『ヒストリア』という番組。
NHK。
 
上杉謙信が

"不識庵謙信"

と名乗るきっかけになったエピソードが
伝えられていました。
 

   達磨大師の逸話。
   通称「達磨不識(だるまふしき)」というらしいです。
   達磨大師と中国の皇帝(誰かは不明!)との問答。

 
皇帝が、

「私は多くのお布施もしたし、寺院もいっぱい建てた。
これだけの貢献をしている私の価値はいかほどかね?」

と、大師に問うた時、

大師は、

「あんたに価値は無い」と言いました。
 
それに対して皇帝は、ムッとして(そりゃ誰だってしますよね。)

「ほな、高名なあんたの価値はどれほどやねん!」と返しました。
 
すると、

大師は「不識」、
つまり、
「そんなん知らんわ。」と答えたという逸話。
 

いくらかは脚色されてはいるだろうけど、
皇帝の寛容さにびっくりです。

「あんたに価値は無い」なんて言われたら、
即刻打ち首でしょうに。

人間が出来てなかったら、
というか普通の人間なら、

「これだけ金をかけて、貢献してんねんから、
誰もが自分を徳を積んだ尊い人だと持ち上げるに違いない。
ちやほやするに違いないやろ。
たとえ相手が高名な大師であっても。」

そう考えて、
ヨイショしてもらうことを望むでしょう。


自分の価値、自分が思いついたアイデア、
自分にまつわるあれこれに、

「こんだけすごいことやってんねんぞ!」

と自信をたっぷりつけてまぶして、
周りに売り込んでいくことは、
ある面では必要です。
 

でも、

自分に価値があるかなんて誰も分からないし、測りようが無い。

つまり不識。

そこから発想を出発すべしということ。

そういう話なんでしょう。


周りがちやほやしても、自分が天狗になっても、
プライドが高くても、自分の価値は分からない。

あるように見える時でも実はふわふわしてて、
そう思い込んでいるだけ、
周りの熱狂に思い込まされているだけということが多いと思います。

そう考えると、

「自分にどれだけの価値があるのか」
を気にしてビクビク生きるよりも、

自分の価値?そんなん分からへん!と開き直って、
導かれるままに、
心耳を澄まして生きることが当面の戦略としては良さそうですね。

ある分野で、「あなたの価値はこんなにも高いんですよ!」

反対に、「この世界で生きていくには、あなたの価値はこんなにも低いんですよ。」

と周りに言われたり、
自分自身が思ったりするとして。
 

それに影響されて、
「自分の価値」という虚構に振り回されるとして。
 

そんな時、思い出すべきは、

「自分の価値は分からない。測れないし目に見えない。」

という立場に立って、
今自分がいる場所
もしくはこれから向かおうとしている場所は、

「自分の価値」とは無関係に、
「流れ」のようなものの導きだととらえること。
 
それを「縁」と呼んでも良いんでしょう。

五木寛之さんの言う「他力」ですね(『人間の覚悟』新潮新書)。


人間は自分の決断に、
自分が何かしら手を加えたと思い込みたい存在だと思います。

何かしらのオリジナリティーを付与したいと目論む存在だと思います。


しかし、

大体は自分の意思とは関係なしに
やって来た流れに対応しているだけのこと。
 
その流れに乗るか、見送るか、逆走するか。

そういった対応の仕方に
オリジナリティーが生まれる余地はありそうですが。
  

何かに接した時に、

「見て!見て!」

と、自分の価値を売り込んでいくよりも、しばし静観する。

状況を見て、自分が食い込めそうな分野で、
「これなら・・・」と手を挙げる。

こんなスタンスでいたいと思います。

確実に時代に逆行しているけど。

今日はこの辺でzzz 

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