#8 コミュニケーションの方法

中央大学教授が刺殺された事件について、報道している番組を見ました。 
 
今年の1月14日に、中央大学工学部教授が、
元教え子の28歳の男に構内で刺殺されたという事件。
 
容疑者の同期のゼミ生、中学校時代の担任の話を引きながら、
「人と話すことが苦手な内気な容疑者像」を作り上げ、
容疑者の"心の闇"に迫るポーズを見せ、
今後の裁判(またはそれに伴う精神鑑定やら)に
"真相"の解明を丸投げするというスタイル。
 
コメンテーターである髪を短く刈り込んだ初老の女性は、

「人と話すのが苦手で、何を考えているのかよく分からない、
内面に鬱屈をためているような人が増えましたよね。
うっかり、彼らにとってのタブーに触れてしまったら、
何をされるか分かりませんね。怖い世の中になりましたね。」と言い、
視聴者の疑心暗鬼を増幅させるような言説を垂れ流していました。

これまでに、ここ10年、20年、この手の事件が報じられるたびに
繰り返されてきた報道番組の表現スタイル。
 
自分はこのスタイルにいつも違和感を覚えます。
 
しかし、いつもその違和の根元を特定できないでいます。

こういった報道のされ方に違和感を覚えるのか。
それとも、容疑者の動機に違和感を覚えるのか。
何に違和感を覚えるのかは、いつも分からずにいましたが、
今回、その一端に気付いた気がします。

それは。

「社会で支配的になっているコミュニケーションの定義」について。
 
これらの番組が、

「コミュニケーションをとる」=(イコール)「対面して声を出して人と話す」

という図式を不文律にして制作されている点。
 
コメンテーターが、
「最近の人の中には、コミュニケーションをとることが苦手な人が多くて・・・」という時の、
「コミュニケーションをとる」とは、
「対面して声を出して人と話す」ことと同義であり、
それ以外の意味は含まれていないように思う。
 
感じた違和感の一端はここにあります。

コミュニケーションの方法は、
「対面して声を出して人と話す」だけではないはず。

なぜ、それしかないかのような態度が奨励されるんだろうか。
それ以外の可能性を認めることが、
これからの時代は必要になってくると思うんだけど。 

いろんな人がいる。
面と向かって会話をするのが好きな人。
好きではないが我慢できる人。
全く好きでもないし、人と向かい合って会話を始めると頭がパニックになる人。

いろんな人がいる。
なのに、全員に、
「直接会って話せ!メールよりも電話で。
電話よりも直接会って。とにかく会って話せ!」的な圧力がかかると、
前2者はまだ良いけど、3番目には不可能。 

番組では、容疑者がしたためた
「人とコミュニケーションをとりたい」という手記の一部も紹介されていた。

もしも、容疑者が、
人とコミュニケーションをとることが苦手な自分と、
社会的に求められる人物像との間に挟まれ、
居心地の悪さを感じていたことが、犯行の動機の一因となっているのなら、
彼もまた、「コミュニケーションをとる」=「対面して声を出して人と話す」
という図式にとらわれていたと言えるんじゃないだろうか。
 
この図式にとらわれ、他の方法を見出せなかったことが、
容疑者にとっての悲劇だったのかもしれない。
 
うまく人と話せない自分を責め、責めて責めて責め疲れて、
追及の矛先が外に向かう。
こうやって蓄積されたエネルギーが、
何かを引き金とした衝動にドライブされ、現実の形に発露する。
 
確かに「人とコミュニケーションをとりたい、つながりたい、自分を知ってもらいたい」
という思いは、人間の持つ根源的な欲求だと思う。
 
幸福も人の間で交わることでしか見つけることが出来ない。
おいしいものを食べた時、美しい景色を見た時、素晴らしい体験をした時、
その感動を分かち合う相手が欲しいはず。

ひきこもっても、オンラインゲームで誰かと物語を共有する人がいるくらいだ。
自分だってひきこもればそうすると思う。
100人いれば99人はそう考えるはず。自分もその99人のうちの1人。
そして、社会に浸透している代表的な方法が「対面して声を出して話す」という方法。
 
しかし。

なぜ、人とコミュニケーションをとる(交わる)ための方法が
「対面して声を出して話す」方法しか想定されないのか?

なぜ、人と話す方法に長けていなければならないのか?

そういった社会全体を覆う見えざる圧力のようなものに自分は納得がいかない。
 
自分は、別に、面と向かって人と話せなくても良いと思っている。
別に、面と向かってはきはきと物事を言う必要は無いと思っている。
言われなくても必要な時はするんだから。
 
確かに、常に、面と向かって堂々と、適度に空気を読み、
時には理路整然と物事を語る方が、得なことは多いとは思う。
 
しかし、向き不向きがある。
好き嫌いもある。
 
人と面と向かって話すことに向いていない人や、嫌いな人は、
それ以外のコミュニケーションの方法を探せば良い。
 
「社会で生きる上でそんなこと無理だろう。」という人もいるかもしれないけど、
可能だと思う。本気で思っています。

事件の容疑者が、人と面と向かって話すと緊張し、
思っていることを外に出せなかったのだとしたら、
自分1人の時に、議論の時に言いたいこと、それに対して言われそうなことを先回りして考え、
それに対して更に回答する、といったような周到な文書を作り、
「私は、人と面と向かって議論することが苦手なので
(もしくは、極度の緊張で何も有益な意見を言えないので)、
書面で参加するという形で良いですか?」と、
議長に一任すれば良かったのかなとも思う。
 
「は?何言ってんの?そんなわがまま通るかい!」と言われても、
自分のコミュニケーションのスタイルを確立したいのであれば、そこで闘うしかない。
そこでの説得にも、予め周到に台本を作って、
「こう言われたらこう切り返して・・・」というふうに考えて準備しておくしかない。
   
絵を描く、作品を作る、本を書く、詩を作る、手紙を書く、
メールを打つ、ラジオで話す、おいしい料理を作る、畑で野菜を作る...
 
コツコツと誰にも会わずに制作したものが、
自分の分身となって自分の代わりに誰かと会話をしてくれる。
そして交流の輪が生まれる。

人とコミュニケーションをとる方法は、
「対面して声を出して話す」以外にもあるということ。
あってほしいということ。
人生で与えられた時間を使って、自分に合った方法を探せば良いということ。

 今日はこの辺でzzz

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コメント(4)

いつもブログ書いて、寝るの? それとも 書きながら寝る?
どっちもすごい技だ!!認める!
このようにすることも、イちゃんと僕がコミュニケーションを取っているということ?いやだ! いやだ!僕は直接あって体でコミュニケーションを取りたい!
(少し真剣なモードーで)
こんなにたくさん書くって、すごいね。
確かに本を書くことも、映画を作ることも、作品を残すこともコミュニケーションを取っていることかもね。
では、私は英語でコミュニケーションを取りたい(笑)

この名前でわかるかな??
こちら教えていただいてありがとうございました♪

いやぁ。。やっぱり色々なこと考えていらっしゃって
すごいなって思いました。

メディアは、一方的な偏った判断を押し付ける傾向が
強くなっているように思います。
そこに出てくるコメンテーターと呼ばれる人々は
それを助長している人が多く感じて、
最近は本当にテレビを見なくなりました。
今の、人が怖いのではなく、
人をそのように怖い状況にしてしまう、
状況になってしまうような、
そういう流れになってしまっている世の中、
それを誰かのせいにしてしまっているその風潮が
実は一番怖いですね。。。

チョンさん、コメントありがとうございます。

いつもは、寝ながら書いています。
夢の中でムニャムニャ・・・
寝ている間に、小人が・・・

来月、直接コミュニケーションとりましょう!
英語も鍛えておきます!

dropwaterさん、コメントありがとうございます。

 テレビなんかの、不特定多数を相手にしている情報の発信者は、「どんな言葉が一番、人の心をあおるか」、という価値判断に即して行動することが宿命付けられていると思います。
 そうしないと、多くの人が刺激を感じないから。
 
 だから、僕は、ほそぼそとあんまり刺激的じゃないことを書いていこうと思います。(自虐的・・・)
 
 これからもよろしくお願いします♪

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