#16 問い方の工夫

札幌は不順な天気が続きますが、
午前中は天気が良いみたい。

本州は梅雨入りでしょうか。

何かに対して疑問を持った時に、
人は必ず問いを立てますが、
その方法について
今日は少し書きたいと思います。


**************************************


問い方1つで、
その後の思考が迷路に入るか、
意味のある知見を出すに至るかに分かれます。

時には、
迷路に入ること自体を手慰みに
目的にしても良いと思うけど、
誰かと何かを共有したいなら
後者の方が絶対に大切になります。
 
問い自体が大切でも、
その問い方を誤れば思弁的になって
観念の彼方に飛んで行ってしまいます。
この世界から遊離してしまう。

現実との接点が無くならないようにするために、
そして、
間接的にではあれ、
実際に自分も含め、
誰かにとって役に立つ考え方を見出すために、
物事に対する"問い方"について考えてみたいです。


例えば、
 
 「人生とは何だ?」
 「なぜ、自分は生きているのか?」
 「自分はどこからやってきたのか?」

そんな問いがあります。
 
とても根源的な問い。
 
自分はなぜここにいるのか。
自分は何のためにこの世界にいるのか。
自分はこれからどこに向かっていくのか。

とても根源的な問い。

きっと誰もが思ったことのある問いですね。

いわゆる知性のある存在なら誰もが心に抱く問い。
でも、答えの出なさそうな問い。


恩田陸さんの『夜のピクニック』に、
次のような叙述があります。
 
 「日常生活は意外に細々としたスケジュールに区切られていて
 雑念が入らないようになっている。
 チャイムが鳴り、移動する。
 
 バスに乗り、降りる。歯を磨く。食事をする。
 
 どれも慣れてしまえば、深く考えることなく反射的にできる。
 むしろ、長時間連続して思考し続ける機会を、
 意識的に排除するようになっているのだろう。
 そうでないと、己の生活に疑問を感じてしまうし、
 いったん疑問を感じたら人は前に進めない。
 だから、時間を細切れにして、さまざまな儀式を詰め込んでおくのだ。
 そうすれば、常に意識は小刻みに切り替えられて、
 無駄な思考の入り込む隙間がなくなる。」


そう。
 
やることがあるおかげで、
一時的にそれらの問いを忘れられるんですね。
 
きっと何千年も昔から似たように考え、
この問いについて何かを感じようとした人が
大勢いたに違いありません。

それぞれの立場から、
この問いにひとまずの答えを
出そうとしてきたに違いありません。

きっと答えは出ない。
誰も知らない。
だから「ひとまず」の答えです。
 
だからこそ、
有限の人生の中、
これらの問いを考えるのにはどこかで見切りをつけて、
この世の中のルールに乗っかり、
日々の暮らしを成り立たせることに
心を砕くべきだとも思います。

何より、
日々の「儀式」によって、
これらの問いへの意識が分断されて(分断してもらってと言うべきか)、
儀式をしている間は考えなくて済むのだから。

やることがありすぎて、
それらの問いをゆっくり考えられないと嘆くか、
やることがあるおかげで、
そういった"めんどくさい"ことを考えなくて済むと安堵するかは、
人それぞれだし、状況にもよりますよね。
 
決まった時間に起きる、
起きたら歯を磨く、
いつもと同じように服を着て靴を履いて外に出かける...
 
日常にある儀式と化したイベントが、
長期的な思考を断絶してくれる。
 
そんな所に安堵を覚えるのは、
その問いの大きさに圧倒され、
正面から向かい合うことがとても難しいからだと思います。

「人生とは何だ?」とだけ問うても、
漠としてとらえどころがありません。

いろいろな側面がありすぎて、
思考が無限に拡散していくだけ。


では、
このような大きな問いに対して、
「ひとまず」ではあれ、
自分なりの答えを見つけるためには、
どういった"問い方"が考えられるのでしょうか。
どういった"問い方"が有効なんでしょうか。


今のところは、
問いの抽象度を下げることしかないと思います。
微分する。
 
今の自分の周りにある
具体例に即した問いに言い換えるということですね。

「人生とは何か?」という問いに対して、
目的、進み方、来し方などの項目に細分化する。
 
そして、
各々の項目について、
問いの次元を下ろしていく。
 
  「人生とは何か?」
 

「人生の目的は何か?」
「人生はどうやって進んでいくのか?」
「なぜ自分の人生は始ったのか?」...

 
ひとまず、
「人生の目的」について進めると、
それは幸せになることなんだと思います。
 
自分はそう思います。

そして、今、
自分が身を置いている世界に即して
さらに考えてみると。
 
社交ダンスの世界に即して考えると、
この世界での幸せとは何なんでしょうか?
 
 「競技会で好成績を収める」
 「営業面の充実」
 「人生のパートナーと独立して自分の教室を持つ」
 「生徒さんに喜んでもらう」...

等々かな。
 
自分には、
こんなことが思い浮かびます。

そして、
それを実現させるには何が必要か、
という方向に思考を進める。
どんどん具体的に考える。
演繹的な思考。

大きな問いから、
小さな問いに細分化して
思考を進める。

自分はこんな順路の
思考を常としているような気がします。

ちなみに、
一方で。
 
 まずは何も考えずに社交ダンス!

→練習の成果が実って好成績!
 それにつれて営業面も充実してきた!

→嬉しい!
 社交ダンスの世界で幸せになるって、
 こういうことなのかな。

→今の自分の人生の
 ほとんどの時間を社交ダンスに費しいているけど、
 この社交ダンスの世界で幸せになるということは、
 自分の人生にとっての幸せなんだろうな。

といった、
帰納的な順路の思考をする人もいると思う。
 
日常の実感を積み上げて、
大きな問い、そしてその大きな問いへの回答に至るというスタイル。
こっちは積分。
細分化の反対の積み上げ型。
 
今は、大きな問いに対する問い方だから、
抽象度のレベルを下げていく順路がふさわしいみたいです。


何かの現象に対して
「不思議だなー。」とか、「なぜ?」と問う時、
自分がその現象に対して
抱いた所感のレベルを見極めること。

それが大切かな。

「この問いについて当面の回答を出すには、
この問い自体をもっと分かりやすく細分化して行った方が良いのか、
逆にこの問い自体が部分にこだわり過ぎているために、
もっと次元を上げて大きな話として問い直した方が良いのか」

を判断することが大切。
 
それが最初の作業なんでしょう。

今の"問い方"の次元が、
どこに位置するのかを
見極めることが大切ということですね。
 
今の"問い方"が、
どんな具体的な問い方を含んでいるのか、
どんな大きな問い方の一部なのか。
 
それを見極めると、
闇雲に突っ走らなくても済むような気がします。

 今日はこの辺でzzz

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