札幌は、久しぶりに天気が良いです。
暖かくて風が穏やか。
花も木も色鮮やかに、
綿毛や虫もふわふわと舞っています。
そんな気候が好きです。
今回は、
多様性
についての態度です。
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異質なものを受け容れましょう。
多様性が大事ですよ。
ということがよく言われます。
金子みすずの詩も、
いろんなところで耳にし目にします。
"・・・みんな違ってみんないい・・・"
『♪世界に1つだけの花』も大ヒットしました。
ナンバーワンよりオンリーワン。
もう完全に、"常識"になっています。
確かにそう思います。
多様性はとても大切。
いろんな人にいてほしい。
おじいちゃんやおばあちゃん、
若い人や小さい子、
ゲイもノーマルも韓国人も日本人も、
動物も宇宙人も(いるとして)、
いろんな存在がいてこそ、
種は進化するんでしょう。
(でも、「自分に危害を加えない範囲内で」
という条件付の「いろんな人がいてほしい」だということは、
自覚しておくべき。
これについてはまたの機会に何か書きたいです。)
でも。
それを自分の中で消化して言葉にしておかないと、
ただのお題目になる。
教科書的になる。
優等生の語る、うっとうしい説教みたいになる。
それは嫌。
なので。
「異質なものを受け容れるとはどういうことか」
それを考えるきっかけとして、
自分の経験から、何かを語ってみたいと思います。
熱力学に、「結合エネルギー」という概念があります。
その状態(個体とか)を維持するために、
物質を構成する各原子が、
お互いにくっつき合おうとする、
引力の総和のことのようです。
原子の行動原理には、
異質なものを排除して、
今つながっている隣の原子とのつながりを
優先させようとする意思のようなものが
存在しているみたいです。
社会を何かの物質に見立てると、
人間は原子。
その原子である同質な人間同士が、
今の安定した状態を壊す可能性がありそうな、
外部の刺激に対して、
一致団結して結合エネルギーを集積して、
今の状態を保とうとする。
結合エネルギーの考えを援用すると、
人の、人の社会の「異質なものへの対応」は、
こんな感じに言えるでしょうか。
でも。
異質なものに対する態度は、
それを排除したい、遠ざけたいという気持ちと、
それを受容したいという気持ちが
まぜこぜになったものだと思います。
ぼくはそう思います。
大学に在学中の頃、
ある時期、自分の周りにいた、
ある人のことを思い出しました。
その子を、何と形容すれば良いか、
適当な言葉を充てづらいです。
無難な言い方だと、
「変わっている」
になったんでしょうか。
そういう子がいました。
ゼミで何かについて話し合う時は、
議論になっていきそうな方向からそれ、
代わりに全く新しい考えを提示する。
飲み会では、
世間で美徳とされているようなことを真っ向から否定して、
「自分はそんなの嫌だ」と主張する。
常に堂々として何事にも動じず、
おもしろいことがあったら大声で笑い、
憤ろしいことがあったら怒り、
歌いたくなったら歌って。
と、そんな子でした。
ぼくの目にはそう映りました。
自分が無意識に目をそらしていたこと、
いろいろな日常の儀式で包み隠してきた「知りたくないこと」、
そういうものを、
さらっ、と言ってしまえる子でした。
ぶっ飛んでいる、生意気、うるさい、何を言うか分からない。
周りからはそう形容されていた彼のことを、
ぼくはとても好きでした。
おもしろいな~
こんなことを考えるんだな~
と、
いつも新鮮な目で、彼を見ていた気がします。
次は何を言うんだろう、
と彼の発する情報の受け手、
客としての立場に居心地の良さを感じていた一方で、
少しの対抗意識を燃やしていたところもありました。
恥ずかしいけど、
確かにあった気持ち。
心理学の言葉で言うと、
コンプレックスになるのかもしれません。
好き、というのは複雑な感情です。
その子に対する周りの反応は、
好きか嫌いの、どちらかに分かれていたように思います。
中間はあんまりいなかった気がします。
自分の周りには、彼を好きな人が多かったように思います。
その存在をみんなが温かく、
寛容に見守っていたような雰囲気があったと思います。
自分にとって、
完全に異質な言動をするその子に対して、
なぜ自分は好きだと思っているんだろうか。
そう考えたことがありました。
そのときに気付いたことがあります。
それは、今の好きさが、
「なぜか分からないけど好き、惹かれる」
という"好きさ"ではなくて、
「努力して好きでい続けたい」という、
とても意識的な"好きさ"だったということ。
その子の存在を好きと思える自分でいたいという、
努力の表れだったということ。
そういう特異な存在を好きでいたい、
受容できる自分でいたい、
そういう願いの表れだったということ。
そうだと気付きました。
「何かよく分からないけど勝手に好きになってしまった」
という、"受身の"好きになり方ではなく、
「意識的に好きでいたい」
という、"能動的な"好きになり方。
「好きでいたい」という気持ちがあって、
そういった、
自分にとってのそれまでの好きになり方の違いが、
自分に
「なぜ、自分にとって異質なその子を好きなんだろう」
と思わしめる違和感になったんだと思う。
でも。
今思い出すと、
自分の周りにいた、
その子を温かく見守っていた人たちも、
そういう好きさだったんじゃないかな。
その子を認められる自分でいたいから。
自分にとって異質なものを
受容できる器を持っていたいから。
自分も含め、
みんなそんな気持ちだったのかも。
こっちが働きかけなくても、
勝手に好きになってしまうものもあるし、
こっちが働きかけて好きでい続けるというものもある。
両方あって良いし、
あったほうが良い。
どっちが貴いとかじゃなくて。
以前は、
前者を運命的な出合いとして、
後者よりも貴いもの
だと考えていた時もありますが。
自分にとって、
よく分からないもの、異質なものに対しては、
最初の感触で「うわっ!無理!」と思うもの以外は、
基本的に好きでいたいと思っています。
その方が生産的だと思うし。
そして、
その好きになり方には、
少なくとも2通りあって良いということ。
運命的なものを感じていないから、
自分は好きじゃないんだな・・・
なんて考える必要はないということ。
そう考えて、距離をとってしまう必要はないということ。
ちょっとでも引っ掛かりがあれば、
それは好きだということ。
そう考えた方が、
良いことが増えると思います。
そんな気がしています。
今日はこの辺でzzz
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