#32 カエルの手-知識の使い方

昨日はサークルでした。
 
午前10時過ぎ、
7人のお客さん相手に、
自分とスタッフの女の子の2人で
グループレッスンをしました。
 
お客さんは全員、女性です。


女性8人の中に男が自分1人。

その状況を当たり前のように思っている所があります。

所変わればその比率は逆転するはず。
そういうことを改めて意識してみました。


この風景は、
自分にとって当たり前になったもの。
日常に埋没したもの。
意識を向けなくなったもの。

たぶん、いつか職場が変わって、
この状況が身の回りになくなった時に、
回顧的に思い出すんでしょう。


*************************************


失って初めて気付くもの、
というものがあります。
 
今自分の身の回りに
当たり前のようにあるもの全てが、
その候補。
 
この職場の風景もその1つ。
 

失って初めて気付くなら、
それはそれで良いと思うけど、
失う前に気付けるのなら、
その前に気付いていたい。

そうも思います。

この職場の風景のように。
そしたら、愛おしさも増すんでしょう。
 
 
日常の当たり前の風景と化したものに、
意識を向けてみる。
 
そして、どの辺が
「あり得ない、あり難い」のかを
リストアップしてみると、

その世界、集団の特殊性が明らかになると思うし、
愛着もわいてくると思います。

そんなことを、
これからも続けたいと思っています。
 

お客さんから、よく、
いろんな事を教えてもらいます。


ほとんどが、
自分の母親以上の年齢の女性だから、
知識も人生経験も豊富なんです。
 

他のお客さんから振舞われた
チョコレートをほおばりながら、

「かんろ、かんろ。」

という人がいました。


えっ!何やそれ!?
かんろ、って、甘露?
甘露っていうから、甘い、おいしいっていうことなん?


とは思いましたが、
そんな表現をする人は初めて。
なかなか新鮮です。


普段から、はんなりとした
京都の女性のような振る舞いをするお客さんです。
お芝居の1場面を観ているようでした。
 


 「未来永劫」

という言葉があります。

それの最後にくっついている

「劫」

の文字。
 
これについて、
教えてくれたお客さんがいました。


「"みらいえいごう"って言葉があるでしょ?
あれの最後の文字の"ごう"っていう漢字。
あれ、"こう"とも読むんだけど、
あれってね、"極めて長い時間"って意味なのよ。

どれぐらい長いかって言うとね、
天女の羽衣っていう言葉があるでしょ。
あれの天女が、地上に水浴びに来て、
水浴びしている間、羽衣を岩の上に置くの。
それを繰り返して、
その岩が擦り切れてなくなっちゃうまでの時間のことらしいの。
それほど長い長い時間ってことらしいのよ~。」


へ~。

天女がどれぐらいの頻度で
水浴びに来るか分からないし、
ふわふわであろう羽衣で
岩(たぶん小さくない)を摩滅させるなんて。

確かに長そう。
というか永そう。
 

また、あるお客さん。
 
「カエデの由来、ご存知ですか?
一説では、カエルの手に似ているから、
カエデと呼ぶようになったそうですよ。」

 
ほ~。

意外に単純な、
というか大して深い意味は無いというか、
これぞ雑学!というか。


お客さんに教えてもらう、
何気ないこと。
 
このことを、

「雑学が増えた」

というだけに、留めておくのはもったいない気がします。


こうやって、
知識というか、
知っていることが増えていくということはどういうことか。

そんなことを
考えたいと思います。


何の意味があるのか。
何に役に立ちそうか。

そんなことについて、
何か考えてみたいと思います。
 

知識が増える効用として
自分がよく耳にすることに、

「物事のいろんな面を知っていると、
決断を誤らなくなる」

というものがあります。

これを1つの基準にして
考えてみたいと思います。

 
「物事のいろんな面を知っていると、
決断を誤らなくなる」。
 

確かにそうでしょう。
ぼくも、決断に関わらず、
知識はあればあるほど良いと思っています。


では、どういうふうに誤らないんでしょうか。


先に言うと、

ぼくは「決断」という行為に、
誤りも正解もないと思っているので、
この言葉自体あんまり意味がないように思っています
(そしたら、取り上げんなや~)。
 

自分にとって、この言葉は、

「物事のいろんな面を知っていると、
良い事が多いと思いますよ~」

くらいの表現でちょうど良いかな。
 

特に、

自分自身の人生に対する決断、
その人個人個人の人生に対するその人の決断については、
正解も間違いもないと思っています。

何を選択しても正解だと思うし、
何を選択しても間違いだとも思います。

誰も査定できない。

してほしかったら、
神様に頼るしかない。
 

ぼくは、

「大切なことは自分1人で決める」

ことが良いことだと思っています。

 
今までの人生で、

何故か、誰にも相談せずに1人で決めてきた事が何回かあって、

周りからは

「なぜ、決める前に相談しなかったんだ。」

と、言われることがありました。


自分で決断したくせに、
そう言われると、
とても悪いことをした気になっていました。
 
自分で決断したくせに、
そう言われて後悔を感じることもありました。 
 
 
でも、それらの経験から今思うこと。
 

1人で決めることは間違いじゃない。

周りに言う時は、
自分の中でもう決めたということを伝える時。

だから事後報告。
それで良いと思うし、
それが良いと思います。

特に人生に関しては。
 
 
人生の決断については、
正解も間違いもないんだから、
その人の好きにさせてやれば良いと思っています。

自分自身に対してもそう思うし、
周りの誰かが急に何かを切り出しても
応援してあげたいと思っています。
そんな準備が出来ている(つもりです)。


似たような経験談を、
参考として話すことも出来るだろうけど、
誰もその人の人生を歩めない。

同じ道を行くにしても
全く同じにトレースすることは絶対に出来ない。
 
絶対に。


だから。

自分の好きな人に対しては、
その人の人生についてその人が何を決断したとしても、
応援してあげたいと思っているし、

ましてやその決断について

「なぜそんなことをしたんだ!
お前のためを思えばその決断は間違いだったのに!
事前に言ってくれれば、
絶対反対してそんなことさせなかったのに!」

なんてことは、
言いたくないと思っています。
 

仮にそう思ったとしても、
本人が間違いだと思っていないのであれば、
それは間違いじゃなくて、正解なんだと思います。


人生の決断に、
正解や間違いがあるかどうかは分かりません。


でも、
そんなものは無いと考えた方が、
生産的だと思います。


どこにあるか分からない、
あるかどうかも怪しい"正解"を求めて、
風評や流行の言葉に操られるぐらいなら、

そうやって、「無いこと」を前提に、
自分で勝手に「無いということにする」と考えて、
そこから発想を始めた方が
得なことが多いと思います。


話が拡散しましたが、

「知識が増えれば決断のための材料が増える。
そして、その材料を使って自分1人で戦略を立てて思考して試行して、決断する。」
 

知識には、
そんな使い方があると思っています。
  

明日(今日!)大会なのに、
こんなことを考えている自分にあきれます...

 今日はこの辺でzzz
  

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