#23 salyuのto U-思考の仕方

札幌では、
ようやく晴れ間が見えるようになりました。
  
やっぱり、
この季節の緑は、
明るい陽光によく映える。
  
今回は、

自分がどんな仕方で思考しているか

についての続き。

 
だいぶ前の事だけど、
付き合いで教会の礼拝に出たことがあります。
 
夕方5時から始まる夕の礼拝。
通称、夕礼(ゆうれい)というらしいです。

 
平日の夕礼は、いつも人数が少ないようで、
その日も自分を入れて10人もいなかったと思います。

お祈り、聖歌唱和、聖書朗読と
ひと通りのメニューを済ませた後、
牧師さんからのお話になりました。


 「みなさんは、自分の顔というものを自分で見たことがありますか?」


30代後半であろう若いその牧師さんは、
意思の強そうな大きな瞳をこちらに向け、
そう語り始めました。


 「鏡や写真で見ることも出来ますが、
 それは、いわば鏡やカメラという媒体を通して見た、
 間接的な自分の顔ですよね。
 自分の顔を直接、しかもリアルタイムで見ることは
 誰にも出来ないんです。」


そんな話になりました。


 顔...


そう言われれば、
確かに自分では見ることが出来ないですよね。

 
レッスン中、
お客さんからは自分の顔はどう見えているのか、
競技会やパーティーで自分はお客さんの目にどう映っているのか。
そんなことを思い浮かべながら、
話を聞いていました。


 「人は、自分の周りの人が自分について語る言葉から、
 自分という人間がどんな人間かを、
 後から知っていくしかないんです。
 自分を知るには、自分を構成する情報をいったん外に出して、
 それを後から見聞きして再構成していくしかないんです。」


そうか・・・

自分を知る人の目に自分がどう映っているか、

それを知ってから、

「あぁ、自分はこういう人間なんだな。」

って気付くこともあるんですよね。

自分にはこういう面もあったのかと。

 
話は、

 「本当の自分(私)を知っているのは、
 神様しかいない。
 だから、神に恥じないような行いをしましょう。」

といった、
キリスト教の世界を語る上での定型に
落ち着いていきましたが、
この話は自分の心をとらえて放しませんでした。
 
 
自分のことは自分では分からない。
 

だから、
自分を知るには自分が表現として外に出したものを見て、
事後的、間接的に知るしかない。

自分はそう思うし、
それは現在の常識(構造主義的な思考)
になっていると思います。

 
自分のことは自分では分からない。
 
宗教であれ、学術的な知見であれ、
このことを思考の前提としている点で、
両者は構造主義の思考様式に則っていて、
その意味で理論的な基盤を共有していると思います。


構造主義的な考え方とは、

簡単に言えば、

常識的な考え方のこと。
 
今、この時代の常識になっている考え方のこと。
 
具体的には、

「国や制度、芸術や人の考え方や行動は、
それぞれだという事。
それぞれに歴史があって、
それぞれに特殊な事情があって、
共通点もあるけど、みんなそれぞれ違うということ。」
 

これが今の時代の「常識」のようです。


"今の時代の"、

だから、

100年後、200年後には
「常識」ではなくなっているかもしれません。

でも、これが、
現代の自分達の行動規範になっている暗黙のルール。

 
今、
自分が無意識に思考の前提にしている考え方が、
この「常識」であることに、最近気付きました。

自分が知らず知らずのうちに、
従っていたルールのようなもの。

それが構造主義的な思考という「常識」であることに、
最近気付きました。

「あなた方が、無意識のうちに従っていた行動の基準は、
こういうことなんですよ。」

そう言われたような気がしました。


ここで、自分で確認しておきたいのは、
常識」だから全て乗り越えるべき、
常識」だからおもしろくない、
と思っているわけではないということです。

むしろ無くてはならないと思っています。

特に家族や友人、恋人に対する時に、
そのことを自覚していたいと思います。


例えば、

家族や友人が、「疲れた~」と言ってきた時には、
心の底から「いっぱい休めよ~」
と言ってあげたいと思っています。
 

とても常識的な応答。

「ワークライフバランス」という言葉が定着しつつある(?)時代です。

こう応えてあげるのが、
今の時代の常識だと思います。
 

迷わずそう言ってあげたいし、
本当に休んでほしいと思います。

そう思うのは、
それが、相手を癒す大きな力を持っていると思うからです。
 

「何言ってんねん!がんばれや~!」

と応えることが"模範回答"だった時代は終わったと思います。

今は、「休んだほうがええからな~」と言ってあげたい。
人は誰かに言われなくても、
勝手にがんばる生き物だと思っています。

ぼくはそう思います。
 
 
誰かが相談してきてくれた時は、
この時代の「常識」の言葉で対応するのが良いことだと思うし、
それで良いと思っています。

というか、
それが良いと思っています。


そういう意味で、
今の自分の中には、
思考のダブルスタンダードがあると言えそうです。
 

 ①「常識」で考える部分(構造主義的な思考方法)
 ②「常識」からはみ出した部分(構造主義的ではない思考方法)


あ、いや、もうひとつ。

 ③理屈抜き、理由抜きでこれが好き
  あれが好きと考える部分
  (常識とか常識じゃないとか関係ないところ)

 
これもあります。
確かに。

3番目は、あえて残しておきたいと思います。
意識的に。
 
①と②だけしか自分の中にカテゴリーが無かったら、

「なぜ好きか、理由がないと好きって言ったらあかん!」

という圧力を自分で自分にかけてしまいそうなので。

自分にもしそうということは、
他の人にもしてしまいそうだということだし。

そんなことは絶対に嫌なので。


物事に対して、
分析的な思考の対象にしたい部分(①と②)と、
理由なし理屈なしに付き合いたい部分(③)を
バランス良く持っていたいと思います。

 
あ、今、思い出しました。
 

 salyuの「to U」。
 

美しい詩と曲の世界。

かなり好きです。
 
 
自分は、この好きさを

「なんかよく分からないけど好き」

という次元に留めておきたいと思います。


思考を「好き」と感じた時点で止め、
それ以上思考しないで、
この「to U」という世界にひたりたい。

そんな気持ちです。


 「なんかよう知らんけど好き」
 

そう思うような表現を
いくつも持っていたいと思います。
 
滝平二郎の版画とか、ダリの絵とか。
あの人の話し方とか、この人のしぐさとか。
 
そういう部分を
自分の中に持っていたいと思います。

 
あと、「iris」も。

 
 ⅰ.「自分のことは自分ではよく分からない」ということが
  今の時代では「常識」になっていること、

 ⅱ.自分はその事(それが「常識」だということ)を
  自覚していたいということ、

 ⅲ.その「常識」をキーワードに、
  3つの「思考の型」を持っていたいということ。

 
今回は、そんな内容だったと思います。

 今日はこの辺でzzz

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://ainoue.net/mt/mt-tb.cgi/23

コメントする

ウェブページ

アーカイブ

アイテム

  • P1040776.JPG
  • P1040630.JPG
  • P1040774.JPG
  • books.jpeg
  • P1040062.JPG
  • P1040639.JPG
  • 51IDakozVnL._SS400_.jpg
  • 517rp-clXkL._SS500_.jpg
  • 51kMcQCOAPL._SS500_.jpg
  • P1040038.JPG

2011年4月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30