#58 思考の基本型2-人生・時々・ダンス4

  
昨日の続きです。

自分の思考の型のうちの1つについて。
 
 
自分がどういうふうな仕方で
物事を考えているのかを知りたいと思っています。

自分が日頃よく使う思考方法を知りたいと思っています。
 
そのうちの1つ。


           ①具体例から抽象的な概念(法則)へ
          
           ②抽象的な概念から具体的な例へ
 
 
こういう思考をしていると知りました。
 
昨日は①。
今日は②についてです。 

 
②は、

                 "人生"とか"家族"とか"国家"とか、
                 大きな大きな概念から思考を出発して、
                 それに該当する身近にある具体的な事例を探していく方法。

                 演繹的。微分的。ズームイン的。

こんな感じでしょうか。

 
"人生は何が起こるか分からない"

とか、

"家族とは空気のような存在である"

といった、

ある確立された、大きな概念や命題を、

ひとまず「そうやな~その通りやな~」と認める。

そして、

「自分に当てはめて考えたら、
この通りに当てはまるだろうか。」

とか、

「自分の身に置き換えて考えたら、
こんなバリエーションになるみたいだ。」

とかいったことを発見していく。

 
こんな思考の手順だと思います。
 
 
昨日考えた①(具体例から抽象概念へ)の思考法とは違って、

出発点が、自分の外にあるもの。

本で出合ったり、
身近な人が言った言葉だったり、
心に引っかかった表現を
自分の身に引き付けて考える。

そういう思考の順路のようです。

 
具体例を2つ考えてみます。


 ***********************************

【具体例1】


  社交ダンスの世界では、よく、

  "エネルギー"

  という言葉を使う。


  「フロアからもらったエネルギーを身体の隅々まで、
  手足の末端まで行き渡らせなさい。」

  「2人のフレームを通して、
  エネルギーを循環させましょう。」


とか。

  
自分がレッスンを受ける時にもよく聞くし、
自分がお客さんにレッスンする時にもよく使う。
  

とても抽象的な概念。

  
でも、社交ダンスの動きを語る上で、
無くてはならない言葉。
  
便利な言葉。
  
  
でも、"エネルギー"なんて、
目に見えないし、
実は何のことかよく分かっていない。
  

何となく、ボワーッとしたような、
熱を帯びたような、
これといって特定できないような、
でも確かにあるといったような、
運動の源になる何か。
  

こんなよく分からない定義ができそうなもの。

  
"エネルギー"に対して、
そう思うのは自分だけではないはず。 
  

普段、何気なく使っていたけど、

「その実体は?」

と問われたら返答に窮してしまう類の言葉。  

 
このような、抽象的な概念を
そのままの状態で使っていると、
わけがわからなくなってくる。
 

自分が何を指して
"エネルギー"と呼んでいるのかとかが。
 
 
だから、

自分の身近にある具体例に即して、
この概念を翻訳する。

それが理解するということだと思う。
 
それができると、
人にも説明できるし、
"エネルギー"について会話ができる。

 
では、自分の身近にある"エネルギー"の例は?

 
それは、

「振りかぶった時のタメ」のこと。
 
自分はそう理解している。
 
もっと言い換えると、


          「進みたい方向とは逆の方向に引っ張られる力を
          一瞬だけ感じてそれを逆方向にリリースする時に生まれる
          ベクトルの総和。」
 

そんな理解。
 
 
もっと簡単に言うと、


         「肩甲骨から生まれる運動のための力」。
 
余計に分かりにくいか・・・

 
ひとまず、

社交ダンスの世界で"日常用語"になっている
"エネルギー"という言葉を、
より深く理解するためには、

自分の身近なトピックに、
その具体例が無いかどうか
チェックしてみることが有効なようです。


 ************************************

【具体例2】


        「社交ダンスの世界は虚構(フィクション)の世界である。」 
  

こういう表現を聞いたことがある。
  
  
具体的にどういう点がフィクションなのか?
思い当たる例を挙げてみる。

  
 ●夫婦でも恋人でもない、教師と生徒が、
  "愛のルンバ"や"情熱のタンゴ"を踊るという点。

 ●衣装、メイク、振り付け、音楽、
  スポットライト、大勢の観客、気を許せる教師。
  
  様々な"非日常"を散りばめて、
  フロアに一瞬だけ咲く大輪の花になるという点。

 ●日常の些事から離れて、
  自分自身が輝くためにフロアに立つという点。

 ●自信を持ってもらうため、不安にさせないために、
  意図的に"大丈夫"というフレーズを多用する点。
 

演劇や映画、小説に共通する。
 
そこで語られることは、フィクション。

 
ここで具体例を挙げていくことが、
この思考法の醍醐味の1つなんだろうけど、
もう少し進めたい。
 

ここで出た具体例や、
具体例を考える途中に得た思考のヒントから
さらに何が言えそうか。
  
  
この命題に対する態度には、
2つの極があるようだ。


         ⅰ.どうせ演技なんでしょ?
           どうせ真に心の奥底から発したものじゃないんでしょ?
           どうせ、うそなんでしょ?

           と言って、勝手に絶望して白けて、
           目の前の儀式に参加しない態度。

           自分がとる、お客さんへの対応のいちいちに、
           "うそ臭さ"や"演技臭さ"を感じて、

           "何で、こんなことを言っているんだろう"
           と自分に幻滅する態度。


もうひとつは。


          ⅱ.純粋に心の奥底から発した行動だと信じて疑わない姿勢。

            お客さんへの態度、
            自分のパートナーへの態度、
            同業者への態度など、

            そのいちいちが、
            純粋に自分の心底から発せられていると
            信じて疑わない姿勢。

            これが世界のすべてだ、
            この世界の外には何も広がっていない
           (というより、外の世界というものがあるなんて想像もしない)
            と考える態度。


            自分がいくつもある顔のうちの、
           "社交ダンスの教師"という役を演じている
            という意識が全くない感覚。 

以前は、ストイックに
前者のような態度を支持していた時期もあった。
 
なんか、妙に目覚めた感があって、
かっこよく見えて。
 
20代の前半くらい。


でも、それだとどうもしんどい。
何より人付き合いができなくなる。
人生が楽しくない。
 

全てに対して、
演技の匂いを嗅ぎ取って、
自分や他の人に真実がないこと、
真実を追おうとしないことに、
勝手に幻滅していた気がする(うう、寂しい男だ...)。

 
フィクションの世界だとしても、
そこで得る喜びや悲しみは、
紛れもなく自分のもの。

 
虚構だと分かった上で、
それに参加する。
 
そして、
参加する中で、
何かの価値を見出していく。
 
外に発信していく。
創っていく。
創作の方法を探る。
 
 
たぶん、

どんな集団、どんな場所、どんな時代に身を置いたとしても、
こういった演技(何者かを演じるということ)からは逃れられないと思う。
 

何かを成したいと思うのであれば、
この中から発想するしかない。
 
常に"何者かを演じている"
という前提から思考を始めるしかない。
 
そう思う。

 
演じる中から、
自分というものを語り出していく。
 
自分語りとは、
こういうものだと思う。
 
そして、
こうやって語りだされた自分像の総体が、
"本当の自分"なんだろう。


ある時はダンサー。
ある時は先生。
ある時はプロスポーツ選手。
ある時は男。
ある時は息子。
ある時は孫。
ある時は〇〇の友人。
ある時は部下。
ある時は上司。
ある時は挑戦者。
ある時は異端児。
ある時は殻にこもって自分を守ることに必死な人。
ある時は"このままじゃいけない"と奮い立つ人。
ある時は良い人。
ある時は変な人。
ある時はお酒ばっかり飲んで何のとりえもない人。
ある時はやけに悟ったようなことを口にする人。
ある時は・・・

 
こんな感じでいくつもの顔を使い分けていく。
 
良いとか悪いとかの問題ではなくて、
人間はそうやって、
いろんな"自分"を演じ分けていると思う。
 
演じていない人はいないと思う。
 

旅に対する憧憬は、
誰も知らない環境で
新しい顔を獲得する喜びからきているのかもしれない。


              A.「社交ダンスの世界は虚構の世界である。」
 

といった命題に対して、


              B.「人前で踊る時は、普段の自分ではなく
                ダンサーとしての自分を演じている。」
 
                「お客さんとデモンストレーションで踊る時は、
                衣装やメイク、振り付けや音楽など、
                日常の自分とは違った"作られた自分"になり切って、
                その時だけの自分を開花させる。」


というふうに、
自分の身の周りに、
それに当てはまりそうな具体例を見出していく。
 

そして。
  

               C.「社交ダンスの世界に限らず、
                 この社会には、虚構で成り立つ世界が
                 たくさんたくさん存在するんじゃないか?

                 そして、
       
                その世界は"何者かを演じる人"で
                成り立っているんじゃないか?

                そうだとしたら、

                そこで、何者かを演じている自分に対して、

               "どうせ虚構なんだ、真実なんてないんだと言って白けて、
               演じることを止めてしまう"

       のでもなく、

               "自分が何者かを演じていることに全く気が付かない"

      のでもない、
               両者の間を行き来する思考をもって生きていたい。
               その方が、生産的だと思う。」

 
という、知見を発案する。

 
というふうに、

通説としての抽象的な命題(A)に対して、
自分の身に引き付けて、
それに該当しそうな具体例を探し求め(B)、

さらにその具体例から再出発して、

最初の出発点だった抽象的な命題に何かを足したり、
修正を求めたりする(C)。

 
こういう体裁になる。
 
抽象と具体の往復だ。
 
 ************************************


こういう思考の方法を採用する時、
出発点となる概念や命題そのものの
是非を問う姿勢も必要だと思います。


例えば、

2番目の例だったら、

         「本当に社交ダンスは虚構なのか?フィクションなのか?むしろ真実だ。」

と、命題そのものを疑うことですね。

 
でも、

そう問うことで、
何か役に立ちそうな知見が発見できそうだとは
あんまり思えない時は、

「まぁ、社交ダンスはフィクションの部分が大きいだろうなー。」

というふうに認めておいて、
そこから思考をスタートさせる。
 
 
そして、

「どういう所がフィクションなのか?」
「自分は、社交ダンスのどういう所をフィクションと感じているのか?」

について、
具体的な例をあげていく。


そういうのが良さそうです。

ちょっと長くなりすぎました。
  
 
ひとまず、

自分の思考のツールには


                 具体と抽象の往復


というものがあって、
それには2種類の過程があるということ。
 

 ①具体例から抽象的な概念(法則)へ
 ②抽象的な概念から具体的な例へ
 

他にも思考の「型」のようなものを発見して、
どんどん使っていきたいと思います。 
  
 今回はこの辺でzzz

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