#70 社交ダンスと"表現者と一体になる"ということ


 

「客席と一体になる」

「会場がひとつになる」



コンサートやミュージカル、演劇やダンスパフォーマンスなど、

アーティスティックな表現を見に行ったことのある人には、

耳なじみの深い表現だと思います。

 

こんな経験は誰にもあると思います。

 

大きな物語に参加できたような、

参加する資格を与えてもらったような、

自分の身の丈を越えた大きな存在と一体になれたような、

とてもとても気持ちの良い感覚。


美しい音楽、心に響く声、感動を演出する照明。

多方面に凝らされた種々の趣向。

 

その11つが、

舞台上の情報の発信者とのつながりを

運命的なものに演出してくれる。

 

パーティーでデモンストレーションを披露する時、

見に来てくれたお客さんは、

フロア上の自分達2人に意識のチャンネルをチューニングして、

ここに至るまでの過程を自分の経験に重ねている。


そうやって、

目の前の2人と一体になる。 

 

        演者と観客。

        パフォーマーとオーディエンス。

        ホストとゲスト。

        主体と客体。


この両者の境界が融けて曖昧になった時、

"一体感"に身を委ねられ、

心安らぐ、気持ちの良い状態に至るんだろう。


でも、


自分はそういう場面で、

舞台上の表現者と"一体"になれない瞬間を感じることがある。

 

そういう経験が、

一度と言わず、何度もある。


こういうことを考え出すと、


     「(歌が、踊りが、演技が)下手だったからじゃないの?」


とか、

 

     「練習不足だったんじゃないの?」


と言って、


演者の技能不足、準備不足に、

反射的にその原因を求めてしまいそうになる。


確かに、お金を払っている以上、


演じる側にその原因(責任)を求めるのが

正しいことのようにも見える。


       「もっと工夫して演出しろや~。

        おれらに一体感感じさせろや~。」


チケット代と引き換えにして、

原理的にはそんな態度が許される。

 

その立場に立つのであれば、

"一体"になれないことの責は全て向こう側(演じる側)にある。


自分はとても安心していられる。

観客としての自分には何の義務もない。

ただ座って、自分に何かが飛び込んでくる瞬間を待つだけで良い。


 

でも、これってどういうことだ?



発信者側の技術次第で、

受信者側に何の準備がなくても伝わるということ。

 

演者の技能不足、準備不足に、

観客が演者に同調できない原因を求めているということは、

そういうことなんでしょう。

  


でも、本当にそうか?

そうじゃない場合もあるだろう。

なんとなくそう思います。


もし、


発信者の腕次第で、

受信者がどんな状態でも"一体感"を得られるような

心的効果を与えうるのだとしたら、

パフォーマーにとって観客は起きていようが寝ていようが

何でも良いということになる。


目の前にいてもいなくても良いということになる。

いたとしても誰でも良いということになる。

 


そんなことはあり得ない。

ですよね?


発信者の手腕だけに、

表に発信された表現との"一体感"を

自分が味わえるかどうかを委ねるのは、

どうも不公平な気がする。

お金と引き合わない気がする。


ぼくは、なんだかそう思います。



 「お金を払った後は、全てこっちサイド(演者)に任せてくださいね。  あなたはそこに座っているだけで良いですからね。

  "一体感"を感じてもらえるように仕向けますので、

  あなたはその瞬間を待っていてくれるだけで良いですからね。」



そんなのは、何か気持ち悪い。

 

原初の市場と同じで、

農産物の生産者とか(発信者)が市場まで作った物(情報)を

持ってきて、何かを求める人(受信者)が市場まで買いに来る。


そう。


何かを得たい人、表現者と"一体感"を感じたい人は、

自分から取りに行かなければならないんじゃないか。


欲しいかどうか分からないけど、

自分に飛び込んでくるものを探しに、

どこかへ

(少なくとも何かの情報を発信している目の前の演者に向かって)

取りに行かなければならないんじゃないか。


だから、


"一体"になれないことの理由というのは、

観客の側にもあると思うんです。


もっと、


観客である自分の内面に起因する

"一体になれなさ"みたいなものがあるんじゃないか。

 

そんな気がします。



だいぶ前、

付き合いで行く事になったゴスペルのコンサート。

 

会場である教会の礼拝堂に足を踏み入れ、

指定された席につきました。

 

いつだかの都市景観賞を受賞したというその礼拝堂は、

シンメトリーの美しさを極限まで追求したようで、

参集した観客のそれぞれの意識を、

1つの共通した秩序に誘う装置の役割を果たしていました。 

 

演奏(合奏?)が始まると、

30人ぐらいの20代~30代(たぶん)の男女が、

縦に横に身体を揺らしながら、

ぼくの耳になじみのない英詞を口ずさんでいました。 

 

赤と黄と白を基調にしたおそろいの衣装に身を包んだ30人の男女。

時間が経過するごとに、

指揮者の動きが激しくなっていく。

 

それに呼応するかのように、

発声する歌い手達の動きも波打ってくる。

ひな壇に並んで立つ30人が、

まるで1つの生き物のようにうねり出している。


客席のそこここで手拍子が始まる。

指揮者が客席を向いて、

「さあ、みなさんもご一緒に!」と声を張り上げ、

上に掲げた手を何度も大きく打ち鳴らした。

 

前の方に座っていた自分は、

前方からの「さあ、あなたもご一緒に!」という圧力に似た語りかけと、自分より先に同化を済ませた後方からの

「みんなで一緒にこの場を盛り上げよう!」という圧力に挟まれて、

身動きが取れなくなったのを記憶しています。

 

今よりもずっと幼かった当時のぼくは、


「とりあえず、自分も手を叩いとくか」とか、


逆に


「あんまりおもしろくないから出て行くか」


という発想さえ浮かばずに、

ただただ、この場を支配する圧力に耐えていたように記憶しています。


ノレない自分、会場の雰囲気にうまく同期できない自分を、

とてつもなく"おかしい"存在だと思い、

自分を責めて、身動きがとれなくなったのを覚えている。


たいして興味もなく、付き合いで行ったからなのか。


それとも、

何か考え事をしていて、

ハイテンションなゴスペルに

一定時間接する余裕がなかったからなのか。

 

自分の意識を釘付けにしてしまうほどの

強烈なパフォーマンスに接した時は別にして、

たぶん、

何かと一体になるということに対して、

自分は自分でも知らない深い部分で警戒していて、

恐れを抱いていて、

自分に働きかけてくる目の前の表現者に対して、

自分からも何かをレスポンスするということを

踏みとどまっているからなんだと思う。


この文章の試みについて、今後の展望を思い描いてみる。


ひとまず、いつまで続けるかなー。

出し尽くすまで、ネタが尽きるまで続けるか。


重複する内容が合ったとしても、

今日考えて書いた自分と明日考えて書く自分とは

別人だと思っているから、そんなに気にしない。


だとすると、


原理的に無限にネタは出てくるということだ。


そしたら、死ぬまで続けるかな。

なんて。

 

ひとまず、もっと続けてみようと思います。


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