この前。
出勤途中に、背筋の曲がった小さな小さなおばあちゃんに出会いました。
赤いフレームの、小さな自転車を押したおばあちゃん。
よく見ると、車道から歩道に上がる縁石に、自転車を乗り上げようと何度も押したり下がったりしています。
よっこらせ。せーの。
そんな声が聞こえてきそうな様子。
その様子を、信号が青になるのを待ちながら、横断歩道の向こう側から眺めていました。
車の陰に隠れて、いったん視界から消えた後、そのおばあちゃんが再び視界に入る角度に来た時、おばあちゃんはまだ縁石と格闘していました。
うんせ。うんせ。
そんな息遣いが聞こえてきそうでした。
自分は違う方向に向かう予定だったけど、気になって足を止めました。
その時。
自分と歳がそう変わらないであろうスーツ姿の男性が、おばあちゃんに歩み寄り、ささっと自転車を移動してあげました。
それを見て自分は、ただ単純に、素敵だな~と思ったことを覚えています。
自分なら、同じようにできるだろうか。
自分なら、反射的に行動できるだろうか。
自分には、そういう対応ができる反射神経、運動神経が備わっているだろうか。
そんな感想。
こんな話。
ここで終わると、
やっぱり助け合いって大事だね。
おばあちゃん、良かったね。
という当たり前の落ちになる。
それだと、自分がこの話を紹介する意味がないので、もう少し進めて。
こういう話をすると、必ず出てくる意見がある。
それって偽善じゃないの?という意見。
人助けをした自分に酔って、満足したいだけなんじゃないの?という意見。
待ってましたと言わんばかりのお決まりの意見。
定型通りの意見。
それに対して。
自分はよく分からない。
何が偽善で、何が真善(造語?)なのか?
なぜ偽善だったらだめなのか?
相手が喜んでいても偽善だったらだめなのか?
相手が悲しんでいても偽善じゃなかったら許されるのか?
言葉遊びのような気もするけど、こういう疑問が頭から離れてくれない。
『広辞苑』(岩波書店 第四版)によると、「偽善」とは、
「本心からではなく、見せかけにする善事」
のことらしい。
何か下心があって行う善事ということか。
いまいちイメージがつかみにくい。
そしたら、下心がなく、相手のためを思って為される善事というのは、偽善ではなく紛れもない「善」なんだろうか。相手が喜ぶ喜ばないに関係なく?
そんなことってあるんだろうか。
ひとまず。
整理すると、善行には4つの場合があるみたいだ。
ファクターは、2つ。
①「自分の気持ち(自分のためか相手のためか)」
②「相手の気持ち(相手が喜ぶかそうでないか)」
つまり。
ⅰ.自分のためを思って(下心があって)為した行為で、相手が喜ぶ場合。
ⅱ. 〃 相手が喜ばない場合。
ⅲ.相手のためを思って為した行為で、相手が喜ぶ場合。
ⅳ. 〃 相手が喜ばない場合。
この4通り。
かな。
それで、ⅰとⅱが「偽善」で、ⅲとⅳが「(真)善」。
そうなるんだろうか。
ということは、行為を為す主体(自分)の動機によるということなんだろうか。
動機が「相手のため」であれば、何でも偽善じゃなくなるんだろうか。
動機が「相手のため」であれば、暴言を吐いたり暴力をふるったりしても"善い"ことになるんだろうか。
そんなはずはない。自分のためだからといって、殴られたりけなされたりすることを喜べる人はいないはずだ。
なんだかよく分からなくなってくる。
ひとまず。
相手が喜んでくれるのであれば、自分の動機に関係なく、その行為を善行と呼んでも良いような気がする。
逆に、相手が喜ばないのであれば、どれだけ「あなたのため」と言ったところで、その行為は"善い"ことではないような気がする。
でも。
「将来あなたに良い思いをしてもらいたいから(長期的な"あなたのため")、今はあなたが喜ばないことも言いますからね。」という態度もある。
相手が喜ぶ時点が、「今この時」と「将来」という場合分けも必要かな。
そういうタイムラグも考慮して、上の①②に新たな要素を追加しないといけないと思う。
偽善と真善。
もう少し勉強してから、このテーマに挑戦したいと思います。
今週末には、旭川で競技会があります。
今週は、コンペ前の生活シリーズということで、少し緊張感のある(?)生活の中で気付いたことを書いていきたいと思います。
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