#98 "けんか"という手段2-社交ダンス界に流通する価値観5

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≪さっぽろテレビ塔。空の青を背景にそびえ立っています。電線が邪魔すぎる...≫ 

休日。

空にはもう、トンボが舞っています。
薄くなった空の色を背景に、

赤黒の体をした秋の役者がそこかしこで演じています。
 

これからは、

秋という舞台を飾る道具や役者が続々と出てくるんでしょう。
 

北海道の秋は短いですが。 
短い幕間の風景を楽しみながら鑑賞して、

何かを得たいと思います。


  "けんか"はしたくない。
  
以前はそんなことについて書きました。
 
なぜ、自分がこう思うようになったのか。
自分の経験を振り返って、考えていきたいと思います。
 
**************************************

プロになりたての頃、

先輩の選手に「もっと"けんか"してみたら?」的なアドヴァイスをもらったことがある。

その先輩の頭の中では、"けんか"するほど、

お互いが自分達のダンスに真剣であり、上達を望んでいる、

ということになっていたらしい。


"けんか"の結果起こる、

相手を傷付ける(物理的に、精神的に)こと、物を壊すことが、

さも武勇伝を語るかのように実名、実例を挙げて述べられていた。

そして、

「それぐらい真剣にならなきゃ。」的なお決まりの落ちに至った。
 
"けんか"を奨励する言葉に対して、

当時の自分は「いいえ!嫌です!」という気持ちよりも、

「はい!そうします!」という気持ちに近かった。

 

いかにして"けんか"をするか。
相手と深い所でつながるために、

どうやって"けんか"に持ち込むか。
相手と一体感のあるダンスを作るために、

どんな"けんか"が良いか。

 

そんな感じで、

"けんか"すること自体が目的になっていったような気がする。


素直だった当時の自分は、

「あ~、自分は真剣さが足りないんだなー。大人しすぎるんだなー。もっと"けんか"しなきゃ。」と、

練習に"けんか"という要素を組み込むことを

積極的に検討していた気がする。

 

他の先輩の競技選手は、

いつも不機嫌そうに練習をしていた。
"ぴりぴり"というよりも"ぎすぎす"した雰囲気が、

真剣さの表れなんだと露程も疑わず、

「自分もあれぐらい本気にならなくちゃ!」と思おうとしていた。


近くにあるサンプルを、

疑うことなく"目指すべきモデル"に設定し、

それへの同化に勤勉に突き進んでいったと思う。

 

こうして、

 

"けんか"しながら練習する → 上達
 

という定型に完全にはまりこんでいった。

それを自分でも体現するために、

パートナーに対していつも"けんか腰"に接していた気がする。
 
 「自分のするべき仕事をやっていない。」
 「この前言われた事をやっていない。」
 「やる気がない。」 

口に出さなくても、

いつも相手を査定するような目で見ていたような気がする。

 

そんなことを続けるうちに、

だんだんとしんどくなってきた。
 

そして、いろんなものに気付くようになってきた。

自分が相手を査定するのは良いけど、

相手から自分を査定するような言葉を言われたらすぐに感情的になる

ということ。
 

自分はしても良いけど相手はしてはいけないという、

不公平な関係を無意識に望み、作り上げようとしていたこと。
 

"けんか"することで力みが入り、

「相手を優しくリードする」とか、

「自分の体をリラックスさせる」ということから、

かけ離れていってしまうということ。
 

何より、楽しくないということ。
 
そんないろいろに気付くようになってきた。

 

"けんか"を奨励する圧力に対する態度が揺れ始め、

「はい!そうします!」とも、

「いいえ!嫌です!」とも、どっちにも思えず、

両極の間のどこに自分の採りたい態度が潜んでいるのかを

確認できなくなっていった。

 

「自分にとって大切な人と共に、素敵なダンスを作っていきたい。」

という気持ちはある。
 
でも。


そのために、

相手をののしっても良いのか。相手を傷付けても良いのか。

口に出さなくても、相手を査定するような目で見て良いのか。

 

こう思うことはそんなに変なことだろうか。
 
大義のために、"仕方なく"相手を攻撃する。
政治の世界ならいざ知らず、

個人と個人の関係にそんな訳の分からない論理を

持ち込みたくないと思う。
 
「お互いに上達する」ことと、

「仲睦まじくする」ということが、

それほど両立が難しいとは思えない。

 

興奮状態になって相手を傷付けていると、

「大切な相手だけど"仕方なく"こういうことをしているんだ。」という、

自己免責というか自己弁護というか、そんなモードが発動して、

「これだけ自分にも相手にも辛い事を課しているんだから、

上達しないわけにはいかない。」

といった考えに至る。
 

それが悲壮感につながるんじゃないか。

周りに醸し出す悲壮感に。
 
近しい者同士が暴言を吐きあう姿というのは、

言ってみれば、"ショー"のようなもの。

 

「自分は自分達のダンスについて、

あなたよりよく考えているし、勉強してるし、手間暇をかけている。」


そういうことをアピールするための場みたいなもの。
それは、相手に対して、自分に対して、時には周りに対して、


「自分はこんなにもダンスについて捧げている。

なのに(理解してもらえない)・・・。」

 

という、

「ちゃんとやってる自分」をアピールしあうための場というか。

 

過去、自分が社交ダンスの練習をする時にしていた"けんか"というのは、

そして、他の人がしていた"けんか"というのは、

実はこんなものだったんじゃないか。


そう思う。


  
けんか"しながら練習 → 上達 


という図式。

 

それが合う人なら、

疑問を持たずに突き進みつづけていられると思うけど、

自分にはその合わなかったということ。

その定型をなぞれなかったということ。

 

自分は、

   "けんか"しないで仲良く練習 → 上達

 

という図式にシフトしたいと思うようになった。
 

そして、

その間をつなぐ具体的な方法を工夫して考えていきたいと思っている。
考えるべきはそういうことだと思う。

 

「プロなんだから、楽しくやることが目的じゃない。」

とかを言う人がいても、もう知らない。
 

自分はその人がなぞってきた定型にはついていけない。
自分は新しい定型を語りだすだけ。
 
こういうことが無意識に出来る人はたくさんいる。
なぜか分からないけど"ぴりぴり"してなくて、

なぜか分からないけど楽しそうな人。
 

でも、自分はそうじゃなかった。
でも、今気付いた。
だから良い。

 

それに気付いた時、気が少し楽になった。
あ~、自分の行動はこういう構造に支えられていたんだなー、と。
 

それまで無自覚に縛られていた定型と決別できたことは、

自分の中でとても大きな事だった。
 

もし、今の自分が、

"けんか腰"だった以前の自分と違って、

少しでも人に優しくなれているとしたら、

その構造に気付いたこと、

その構造の外に出る事ができたこと、

それをさせてくれた当時のパートナーや周囲の人、

そういった経験や支援に負う所が大きい。

 

本当に感謝している。

 
"けんか"をしないからといって、

お互いの関係が表層的だと考える必要はない。
 

"けんか"をするからといって、

お互いが魂の深い所で交流できたと考える必要もない。

 

こうやって、自分にまつわる1つ1つの物語を前景化して、検討する。
この先もこの物語を生きていきたいのか、いきたくないのか。
 
そんな作業をしていきたいと思います。

 

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