#77 社交ダンスと"ネイティヴの人類学"3

 

 

札幌は、昨日もとても暑かった。

この季節になると、虫の活動も活発になる。

 

 小さな羽虫が飛んでいた。

 一匹の羽虫が。

 たぶん小さなハエ。

 

 叩き殺すという発想もあったけど、しばらく眺めることにしてみた(ヒマすぎ・・・)。


 しばらく眺めると、

 こいつはどこからやって来たんだろう?

 自分の周りを飛んでるけど、何に引き寄せられているんだろう?

 こいつの目には自分はどう映っているんだろう?

 などなど、空想というか妄想というか、そんなのが去来する。


 でも今日はそれとは別の発想も浮かんだ。

 それは、

 「もしこいつが1匹じゃなくて、何10匹、何100匹と群れて今、自分の目の前にいたのなら、興味のわき方は、きっと別のものになるんだろうな。」

 というもの。

 

 多くいる、たくさんいるというのは、とても気持ち悪い。

 ハエに限らず、犬だって猫だって、人間だって。

 ブワーッとたくさんひしめいている様子は、気持ち悪い。

 特に、共通の目的意識を持つ集団は、その外から眺めると実に不気味だと思う。


 そういう集団、群れに対しては、純真な好奇心というよりは、「こいつら、おれに危害を加えないだろうな?」といった警戒心からの発想になってくると思う。

 

 似たような存在が多くいることの怖さ。外にいる人にとっての怖さ。

 これを自覚しておきたい。

 と同時に、ひとつであるということの貴重さも覚えておきたい。

 警戒心を抱かれる心配が少ないし、興味を持ってもらえるチャンスが多いし。


 さて、社交ダンス。

 社交ダンスの世界にいる人(特に教師、選手として生計を立てている人)は、外の世界からどのように見られているんだろうか。


 昨日はそんなことについて少し書いた。


 社交ダンスの世界に人と交流していると、この世界の特殊性を忘れてしまう。

 そして、他の世界との共通点も忘れてしまう。


 それは嫌だしもったいない事だと思う。

 だから、社交ダンスの世界が日本の中で、世界の中で、どんな位置にあるのか、どんな評価がされているのか、どんな目で見られているのか、そんなことを知りたいと思う。


 そのために、


 ①社交ダンスが日本の中でどういう位置に置かれてきたのかを、鹿鳴館時代にさかのぼって整理してみる(根拠となる法律の推移とか)。


 をすることは、最低限の作業だと思う。

 

 そして、もっと根本的なことだけど、


 ②ある主体がある客体を「描く(評価する)」ということがどういうことかを、本を読んだり、自分の経験に尋ねたりして整理してみる。


 これをしないと、何をしたら「社交ダンスは日本の中で〇〇の位置にいますよ。△△の役割を果たしていますよ。」と言えたことになるのかが、分からない。どうしたら示した事になるのかということが。


 いつか、こういうことを調べていきたいと思っている。


 ①は、過去の文献を調べたりしないと何も分からない。けど、逆に言うと、本を探して読めば終わる作業。後回し。じっくり時間をかけないといけないし。


 ②は、少しずつ進められそう。


 これも場合分けして。


 ⅰ.自分が「描く」場合

 ⅱ.自分が「描かれる」場合


 この2つ。


 ⅱ.の、自分が「描かれる」場合については、何か思い出せそう。


 自分が評価される側だった経験を掘り起こしてみる。

 たくさんある。


 例えば、

 

 ●学童保育として、なじみの無い土地の人の家に預かられた時

 ●研修で十勝の農家に宿泊させてもらった時

 ●知り合いの誘いで、ピースボートのワークショップに行った時

 ●留学生の調査に同行して、モンゴルの食肉市場に行った時

 ●友達の兄弟や両親と面識が無いのに、その友達の家で年越しをした時

 ●よその教室のパーティーにゲストで行った時

 ●W杯の日本の試合を観戦に行った時

 ●付き合いで礼拝に出た時

 ●農業経済学の大学院生なのに、法学研究の若手交流会に参加した時

 

 自分が外国人、異界の人、部外者、外の世界の人として参加したイベント。

 要するにアウェイな感じの時。

 なんか、いろいろ思い出す。


 その集団内に知り合いがいて、何が日常の話題になっているかも良く知り合っている人同士で構成されている集団。ばらばらの個人が集まった集団というよりも、ある一定の共通意識で連帯している集団(家庭とか業界とか国)。

 この中に、ネイティヴの人達にとって、海の物とも山の物とも分からない自分が投げ込まれる。


 「こいつ何者?」

 

 そんな意識を向けられていたはずだ。

 自意識過剰ではなく、自分達の世界に"新顔"がやって来たら、誰もがそう思うはず。

 

 こんな時、自分はどう思っていたかなー。

 どんな気持ちでいたんだろうか。


 最初は居心地が悪かったはずだ。きっと。

 そして、幼い頃には周囲が気遣ってくれて、だんだんと打ち解けていって、自分の居場所を見つけてとけこんでいって。

 大人になってからは、周囲の気遣いと、自分の目的意識や美意識なんかで、「アウェイな気がするけど、これは自分で望んだこと。だから、寂しいとか気にしてられない。当初の目的を忘れないで、何かを得て帰ろう。」的な前向きな姿勢で、自分の居場所を見つけていって。

 もしくは、「自分の意思で来たとはいえ、全然おもしろくないなー。早く帰りたい。」的な後ろ向きな姿勢で、"評価される側"としての負の側面(周囲から「お前誰やねん。」と言われているようで、肩身が狭くなって萎縮してしまうこと)から抜け出せなかったり。


 ケースバイケースで、それなりに対応してきたんだと思う。

 

 自分の全く知らない世界に投げ込まれる時、大きく2つの結末があるみたいだ。


 周囲からの気遣いや自分の意識によって自分の居場所を確保できるか、いつまでも身の置き所を見つけられずに常に孤独感をかみしめるか。


 どうもそうらしい。


 その人のやる気とかだけでは説明できないと思う。

 するべきでもないし。されたら困る。


 「自分の居場所は自分で作るもんだ!」


 というマッチョな言説が適用できる場面ばかりではないと思う。

 世の中は。


 

 その世界で生きていない者が、その世界に投げ込まれて、その世界で生きる者(ネイティヴ)に「描かれる(評価される)」ということは、外部から投げ込まれた者に、2つの対応を迫るということ。


 自分の居場所を見つけてネイティヴになるか。

 自分の居場所を見つけられずに、ネイティヴを観察するか。


 そんな感じか。

 

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