韓国からのキリスト教宣教プロジェクトチームが主催したイベント。
この日曜日に付き合いで参加した。
10時半から始まる記念礼拝。
今にも雨が降り出しそうな、不安定な空模様。
少し寒くすら感じる。
礼拝堂の入り口には、この日のために用意された、手作りのアーチが設置されていた。
ピンクと白の風船を幾重にも重ねてこしらえられたアーチが、曇天の灰色をバックに屹立している様子は、悪天候に抗って気持ちを鼓舞しようとする、主催者の意地を象徴しているようだった。
30歳前後の韓国の男女。
20人くらいいるんだろうか。
韓国国内に、それぞれに職を持ち、長期休暇をとって伝道のためにはるばるやって来たらしい。
ピンクのおそろいのTシャツに、下はジーンズ。
胸元には「His First Love」とプリントされている。
"彼"とはもちろんイエスのこと。
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いつも思うことだけど、宗教というものに対して、自分はどういう立場をとれば良いんだろうか。どういう距離感で、どういう考えで、宗教というものに接すれば良いんだろうか。
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そんなことを思う。
別にキリスト教の信者でもない自分。
かといって、仏教の〇〇宗を信仰しています、といった自覚も無い自分。
無宗教と言われる多くの日本人にとって、宗教とは、"ただの忌避すべきうさんくさいもの" という解釈が定説なんだろう。
キリスト教に限らず、何かの宗教を信じている人、信じていると公言する人に対して、「心が弱いから頼っているんだ。」と独断する人にはなりたくないし、「人それぞれ自由だし、勝手にやってればいいんじゃないの。」と言って無関心でいるのも嫌だ。
世界を動かしている原理の1つは紛れもなく宗教。なんとなく、無宗教を自認している人が多い日本人にとって、このことは想像しづらいかもしれないけど、他の国では自分が何かの宗教を持っているということは、人間がごはんを食べるのと同じように、ごくありふれたこと。
無宗教であるというだけで、宗教に対する態度を表明したような気になっていたけど、実は何も考えていなかっただけ。というか無宗教かどうかも怪しい。
知らず知らずのうちに自分の行動原理になっていたことが、何かの宗教の教義にそっくりだったかもしれない。いろんな媒体から、自分にしっくりくる行動原理だけを選別して採用していったつもりが、特定の発信源の発する情報だけにアンテナが向いていて、知らないうちにその発信源の説く世界に浸かっていたとか。
まあ、それはあってもおかしくないけど、ひとまず、"宗教"というものに対して、何らかの考えを持ちたいと思っている。
礼拝が始まり、いくつかの聖歌を歌う。
サーバーの男の子が大声で呼称する番号の歌を歌う。
中でも『サント』という曲。
なんか心に染みるメロディーだ。
初めて聞いた。
記念礼拝では、「証(あかし)」という名の下に、自分がキリスト教に入信する経緯を皆の前で告白することが行われていた。
告白者は、宣教グループのうちの1人の韓国の女性。
仏教徒だった両親がキリスト教に改宗したために、小さい頃から両親と親戚が不仲だったということ。迫害と言うにふさわしいような、あからさまな攻撃が両親に対してあったということ。そのうち、戦いつかれた両親の仲もぎすぎすしたものになり、次第に娘である自分の居場所がなくなっていったということ。
その女性は、そんな過去を一語一語噛み砕くようにして、口から外に押し出していった。
自分にはそういった過去はない。
人の悲しみや苦しみは、その人自身にしか分からない。
想像力で分かち合う事はできるけど、限りなく近付くことはできても同じにはなれない。
漸近線をたどるだけ。
それでも分かち合いたいと思う。
入信したきっかけが、その女性にとっては辛い過去だった。
そこから救い出してくれたのが、聖書の言葉だった。
そんな話だった。
キリスト教が、その女性にとって人生を前向きにとらえるきっかけになったということ。
とても良いことだと思う。
ただ、その女性の苦しみの元になったのが、両親のキリスト教への改宗だったから、キリスト教は、「苦しみの元凶でもあり、その苦しみに対する唯一の救い」という機能の仕方をしているんじゃないかとも思った。自己完結のサイクルというか。アメとムチというか。
そう考えるのはひねくれすぎなんだろうか。
さておき、礼拝後。
隣のホールに場所を移して、彼らが用意してくれた料理や、他の信徒さんらが持ち寄った料理を中央に配し、食事会が始まる。厨房から届く甘辛い匂いが、空腹であることを思い出させ、お腹が食べ物を催促し始めた。ぐうぐう・・・
老いも若きも、みんな合わせて70人くらい。料理を取りに行く人、料理を運んでくる人、器に注いだ飲み物をそろりそろりと運ぶ人、みんなでわいわいと食べる。
やっぱり韓国料理だ。辛い・・・
すぐにお茶がほしくなる。ヒリヒリ・・・
隣に座った難聴の夫婦に手話を教わりながら、「おいしい」「辛い」「お腹いっぱい」と言って、覚えたての手話で会話しながら、いろんな種類の料理をいただいた。
程なく出し物が始まった。
"サムルノリ"と呼ばれる打楽器の演奏。
艶やかな色彩の扇を使った舞。
テコンドーの演舞。
イエスの救いをモチーフにした寸劇。
心を尽くして披露された出し物に惜しみない拍手が贈られる。
ただ、自分は、所々にエヴァンジェリカルな匂いを感じ、「えっ?!」と、引いてしまう場面もいくつかあった。
宗教に出合う時、2つの態度があると思う。
①「これはやばい!」といって、完全に引いてしまう
②「素晴らしい!」といって、全身を捧げる
この2つが、宗教に対する態度の"極"になっていると思う。
「気持ち悪い!宗教ってやっぱり例外なくアブナイよなー。」と言ってシャットアウトする極と、「最高!この世界を知らない人はかわいそうだ。一刻も早く目を覚まさせて教えてあげなければ。」と言って同一化し、自らが伝道者になろうとする極。
"立場を明確にする"と言うと、このうちのどっちかに属することを意味するように思いがちだけど、この2極の中間にあるであろう、自分にとって収まりの良い場所(両極の引力に引き込まれない場所)を見つけ出したいと思う。
自分は両極の中間に、それぞれの物事に対する自分の思想の基盤を発見したいと思っている。
「1か0か」では単純すぎる。
きっと、感じたはずなのに言葉に言い尽くせないもの、表現しづらいものをばっさりと捨ててしまう事になる。
立場を表明するということはそんなことではないはずだ。
両極端の間にあるはずの、自分にとってしっくりくる場所。
そして、それを言葉で表現すること。
それが、何かに対して立場を明確にするということだと思う。
結果的に、1か0かに行き着いたとしても、最初から両端にいる人はいないはずだ。
「こっちのような気もするけど、あっちのような気もする。」
そんなふわふわした存在だ。人間は。それを恥じる必要はない。
(何かの)立場をとれ!はっきりしろ!と言われると、途端に両極に引っ張られる。
例えば、「キリスト教に対する立場をはっきり示せ!」と言われたら、きっと、パニックになって、思考が停止して、「あんなのは駄目です!」とか、逆に「神様を信じます!この正しい世界像を広く多くの人に知ってもらいたいから、誤解されても伝道を続けます!」とかいった、両極端な意見に落っこちてしまうんだと思う。
少なくとも自分には、「立場をはっきりさせろ!」という問いを、「両極のうち、どちらか一方を取れ!」という問いに読み替えてしまう癖があるような気がする。
①②の両極に落ちていかないために、自力でホバリングする必要がある。
例えば、
●「神様は信じているけど、"神様を信じれば(無条件に)天国に行ける"とかまでは思ってないんだけど・・・」とか、
●「(キリスト教の言うような)神様とかは信じてないけど、別に何にも信じてないわけじゃないんだけど(信頼する人の言葉を頼りに決断する時だってあるし、辛い時、誰かに言ってもらった言葉を心の支えにすることだってあるし)・・・」とか、
●「神様も信じてるし、日々の礼拝も欠かしたくはないけど、あそこまで嬉々として伝道活動はしたくないんだけど・・・」とか、
そういった態度が許されて良いはずだ。
そういった態度は、極と極の間のどこかに位置する態度。
中途半端、どっちつかずだと言う人もいるかもしれない。
決断を先送りにしている、態度をはっきりさせるのを逃げていると言う人もいるかもしれない。
けど、それは違うと思う。
両極に身を委ねる事ほど簡単なことはないと思っている。
考えなくても出来るし。
両極の思想は、メッセージが原理的ゆえに、極論だけに人をひきつける力がある。
でも、極の端に身を置くということは、逆の極を排斥することがアイデンティティーに
なる。相手の間違いを宣伝する分だけ自分達の正しさが証明されるというような。
それは健全じゃない。
何より、感覚として感じた繊細な部分が、ぶちぶちと全部ぶっちぎられて、原理的な思想に回収される。"言葉に言い尽くせなかった部分"が全部無いものとして見なされる。
宗教に対して、
「なんかうさんくさい」という態度から一歩進んでみたいと思う。
「心が弱いからハマるんだ。」という意見を乗り越えられるような思考を持ちたいと思う。
「この宗教が示す世界像が絶対の真理で、他の宗教が語る世界像は偽りで(無宗教は論外で)、伝道によって目覚めさせてあげなければならない。」という意見に対抗できる論理を持ちたいと思う。
食事会も終わる頃、グループの何人かと話をした。
「入信を勧誘されるかも?」といった一抹の不安(期待?)を感じていたが、杞憂。
とてもとても楽しく会話ができ、楽しいひと時を過ごす事ができた。
英語と日本語と韓国語のミックスでの会話だったけど、ダンスという言語も動員して。
ダンスはとても役に立つ。
我ながらとても良いスキルを身に付けたと思う。
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