#75 社交ダンスと"ネイティヴの人類学"

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《親子?仲良く寄り添っています。》

以前好きだったラーメン屋に、

2年ぶりくらいに行ってみました。

  

『魔女の宅急便』のジジみたいな子猫たちが、

入り口にうずくまって、

じっと何かを待っています。
  

時折伸びをしながら、3匹かたまって、

じっと何かを待っています。


お店の人によると、

もっとずっと小さい頃から来ていたみたい。 

彼らはどんなことを考えているんだろうか。
自分たちのことを、どのように認識しているんだろうか。

そんなことを思います。


         ネイティヴの人類学。


そんな学問の分野があるようです。

桑山敬己先生によると、

 

     「ネイティヴが自民族や自文化について自らの視点で語る試み」

 

ということになるようです。

自分の生きる世界について、自分の言葉で語る試み。


自分の生きている世界が、

どのような原理で動いているのか、

何が価値ある考え方として支配的になっているのか、

等々。
 
 
それは、まさに今自分が、

社交ダンスの世界に対して行っている

観察の記録のことだと思いました。
 

社交ダンスの世界を知って、10年経ちます。
 

パートタイムで仕事をしていた時から数えると、

もう5年もこの世界で仕事をしていることになります。
 

「社交ダンス-ネイティヴ」

と自称してもおかしくはないと思います。
 
    
そんな自分が、

自分の生きているこの社交ダンスの世界について、

「この世界ってどんな世界なんだろうか?」

といって、出来事のいちいちに疑問を持っていく。
 

ネイティヴの人類学を、

社交ダンスというフィールドで、

日々積み重ねていっているような気分です。
 
桑山敬己先生の分類を、

自分なりに分かりやすく整理してみたいと思います。
 

ある集団の文化を描く上でのプレーヤーは3者。

Ⅰ.描く人

Ⅱ.描かれる人

Ⅲ.読む人

この3つ。

"ネイティヴの人類学"は、

この3者が、同一の集団にいる構図を指しています。

自分に即して言えば、


"社交ダンス"という業界の中にいながら、

自分の所属する"社交ダンス"という業界について描き、

それを"社交ダンス"という業界の人に読んでもらっている

という構図です。
 

(実際には、読んでもらっている人は、

業界の外の人が多いと思うけど、

ぼくにとってはそっちの方が嬉しいです。)

自分が所属する、

"社交ダンス"という集団について、

この集団の中にいながら、

観察して何かを書いているという状況。


そして、それを読んでくれる人が業界の内外にいて。
 

そういう状況で書いているのが、このページです。


他にも思いついた例を挙げると、

「キリスト教」という集団
 

キリスト教徒である人が、

自分達の宗教について観察して何かを描いて

(例えば、"うちらの宗派って何かちょっと常識外れじゃない?"とか)、

同じキリスト教の人達に読んでもらう

という構図。

「日本への留学生」という集団
 

日本へのインドからの留学生とハンガリーからの留学生が、

お互いに"日本へ留学する上で準備しておいた方が良い事"とかを言い合って、

それを他の留学生と共有する

という構図。

 

「海外への日本人旅行者」という集団
 

東南アジアへの日本からの旅行者が、

"東南アジアに旅行する日本人の傾向"みたいなことを描いて、

それを東南アジアへ旅行しにくる他の日本人旅行者と共有する

という構図。

「日本の中山間地で農業を営む農業者」という集団
 

日本の中山間地で農業に従事する農家が、

"どうやったら農業収入を上げられるんだ"といった工夫をして、

それを同じような状況の農家に語って聞かせる

という構図。

 

どれも、

「描く人」と「描かれる人」と「読む人」

が同一集団にいます。
 

これも、"ネイティヴの人類学"のカテゴリーだと思います。
 

無限に出てきそうです。
 

それぞれが自分の生きている世界について、

何かを描いてそれを同じ世界の人に読んでもらえるのであれば、

どんなジャンルだって"ネイティヴの人類学"として成立する。

 

そんな気がします。

 

ただ、「読む人」に限っては、

同じ集団に限定しない方が良いと思うし、

自分はそうしたいと思います。

 

自分が書いているこの文章も、

同業者よりも全然違う世界に生きる人達に

読んでもらいたいと思っています。

 

人類学とは、

元々、文明社会である西欧社会が、

「あそこの大陸の部族ってどんな暮らししてるんだろう?」

と興味を持って創めた学問のようです。
 

自然現象を観察する研究者と同じような目線で、

"現地に生きている人々"を研究対象にしてきた学問。

 

観察の対象とされる人々は、

観察する人々よりも遅れた文明を崇拝している人々で、

「このような原始的な儀式が未だに継承されているのはなぜか?」

といったようなことが、

主要なテーマになっていたらしいです。
 

要するに、

進化の階段を先に進んでいる自分たちが、

「あいつらまだこんなことやってるぜ」

的な"上から目線"で、

未開社会を調べて自分達の文明社会に持ち帰って

翻訳するといった学問。
 

そういうものとして始まったようです。

 

 Ⅰ.描く人とⅢ.読む人が同じ集団に属して、

 Ⅱ.描かれる人だけが、蚊帳の外という構図。

 

でも。

 

それで現地の人達が、

だんだんと「自分達はそんなんじゃない!」という風に、

観察される側である自分達の描かれ方に対して、

異議申し立てが出来る環境が整ってきたことで、

人類学者たちの中から、

「人間相手の研究をしていたくせに、

今まで、観察される側の気持ちになって考えたことが無かったよな。」

的な反省が出るようになってきた。

 

そんな流れじゃないかと。


そして、そこで生まれたのが、

"ネイティヴの人類学"。

 

自分達の世界を描くのは自分達。

そしてそれを読むのも自分達。

 

そんな感じだと理解しました。

「世界各所の距離が緊密になったから、

広い意味で、みんな同じ集団に属していると言える。

だから、描く人も描かれる人も読む人も同じ集団内にいるということになる。」

そんな理解で良いんでしょうか。

ちょっとまだ良く分かっていない所もあります。

 

観察対象は、

自分達の世界とは隔絶した未開社会の人々ではなくて、

ましてや文明の遅れた野蛮人の集団でもなくて、

自分達と同じ世界に住む少し違う人間。


外からの観察者が、

「あそこは未開だ」と思っていても、

そこには、

自分達の言葉で自分達の世界を語ることが

できる人がいるということを前提にしないといけない

時代になってきたということ。
 
 

どんな人にも感情はあって、

その人の行動を不思議に思ったとしても、

自然現象に対する問い方と同じように、

時と場合を考えずに「何で?何で?」と問い質していくのは、

決して良いことではないということ。
 

 

人の心の機微を無視して、

自分の好奇心を充足させることを優先させるようなことは

してはいけないということ。
 
 

そんなことは当たり前だと思います。
 

自分にとっては当然だと思っていたこと。
でも、それが当然ではなかった時代があるようです。
 

だから、そんな時代に、

例えば、

「社交ダンスの人類学」

的な研究テーマを持った外部の人間が

調査と称して乗り込んできたら、

きっと戦いになったと思う。
 

よそ者にプライバシーを暴露されて、

研究成果という美名の下に世間に公表されて笑いものにされて。
 

そんなことのために

調査に協力する人はいないはずですね。
 
 

研究のフィールドだった"未開社会"というものは、

以前に比べて世界からほとんど消滅し、

新しく設定すべきフィールドが、

自分達のすぐ隣にいる"異文化集団"、

もしくは自分の所属する地域、集団になったということ。
 
 

例えば、自分にとっては、
 

①キリスト教の信徒さんの集団(それこそ、昨日の韓国からの宣教グループ)
②海外からの留学生
スタジオにダンスを習いに来てくれる生徒さん達
④競技ダンスに一生懸命に取り組む同年代の多くの選手達。

いろいろな集団が観察の対象になります。

ここでふと思います。

 自分はどこにいるのか、と。
 自分の立ち位置はどこか、と。
 

これに対して自覚しておかないと、

ただの"上から目線"になってしまいそうです。
 

"上から目線"の何が良くないかと言うと、

相手を不快にさせてしまうこと。
 

そして、言える事が一般論になってしまうということ。
 

どちらもおもしろくないですね。

相手に不快な思いをさせるのも嫌だし、

一般論になるのも嫌です。


一般論になるということは、

言う主体が自分じゃなくても良いということ。

その辺に売っている、

一般的な「人生訓」のようなもので事足りるということ。
 

 

だから。

自分の立場を知って、

どの位置から言葉を発しているのか

という自覚をしておきたいと思っています。

 

例えば、

 

①キリスト教の信徒さん 

→ 大多数の、無宗教を自認する日本人のうちの1人として

②外国からの留学生   

→ 日本人だけの中で育ってきた、大多数の日本人のうちの1人として

 

③ダンス教室の生徒さん 

→ 物語を提供する社交ダンス教教師の1人として

 

④競技選手  

→ 同じような目標を持つ競技選手の1人として
 

(「→」は、"~に対しては"、と読み替えて。)

こんな感じでしょうか。

 

①②に対する自分の立場は、

完全に外部の立場。

③④に対しては、

内部の者としての立場。
 
 

視点が違うから、

そこから始まる思考も自ずと

違うものになってきます。

①②に対しては、

外からの視点として、

「何であの人達はああいった行動をするんだろうか?」

といった疑問。

 

疑問の矢印が、外に向いた形。

観察される側のネイティヴは、

自分ではなくて、観察する側が自分。

自分の所属していない集団について、

何かを描こうとする姿勢。

 

 

③④に対しては、

内からの視点として、

「何で自分達は、こういう踊りのスタイルを支持しているんだろうか?」

といった疑問。

 

自分に向けられた疑問の形になる。

観察される側のネイティヴは自分で、

観察する側も自分。

自分の所属する集団について、

何かを描こうとする姿勢。


そして、ここからが肝心。
描こうとする内容について。

具体レベルでの疑問を、

どれほどの抽象レベルの枠組みに

昇華できるかということ。
 

 

つまり。

「社交ダンスの世界ではこんなことが常識なんですよ。」

といった、

「へ~、なるほど~。すごい世界だな~。」

で終わるような小話に落ち着かせないで、

 

「ここでの常識が、実は全然違う世界でも常識になってるんですよ。」

とか、

「社交ダンスの世界で支持されている価値観は、

実は、人間全般に通用する行動原理になっているんですよ。」

とかいった、

もっと大きな世界に通じる法則にまで

昇華させたいと思います。
 

 

その方が絶対におもしろい。
そう思います。


ひとまず、何かの現象を見る時には、

自分は、

 ⅰ.どの集団に所属しているか
 

 ⅱ.今の思考は自分の所属する集団の内部についての思考か、

   外部についての思考か
 

 ⅲ.読む人は、

   自分の所属する集団の内部の人か外部の人か
 

そんなことを念頭におくと、

伝えたいメッセージとかがすっきりするのかな~と思います。

今、自分が、

実は"ネイティヴの人類学"をやっているんだ

ということに気付きました。


今回はこの辺でzzz

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