#83 眠るのが恐ろしい夜-哲学をしてしまう社交ダンス教師

 

  今、自分は社交ダンスの世界にいます。


 なので、人生で出合う不思議な出来事、理不尽な出来事、形容しがたい現象、どう解釈して良いか分からない現象なんかについての疑問を、社交ダンスという世界にいる自分というフィルターを通して、言葉に結晶化させている。させようとしている。


 中島義道さんの言う「なぜなぜ病」。

 それに罹患した患者。

 それが自分。

 

 普段は表に出せないけど、落ち着いて考える時間さえあれば、いつでもどこでも考えてしまう。


 なぜこんなに生き辛いんだろう。

 この閉塞感はどこから来るんだろう。

 いつかは死んでしまうのに、今なぜこんなことをやっているんだろう。

 世の中では、なぜこんなことが価値あるものとして崇拝されているんだろう。


 などなど。

 自分の中に、そういうことを考える部分がある。


 他の人はこういう問いに対して、どう向かい合っているんだろう。

 どう処理しているんだろう。

 どうやって答えを出しているんだろう。


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 1年に1回くらい、夜眠るのが恐ろしい時がある。


 自分は今、明日起きたらあれをしてこれをしてと考えているけど、このまま目が覚めずに消滅してしまうんじゃないか。自分の意識は消滅してしまうんじゃないか。太陽の暖かさや、刺身のおいしさや、人の手のぬくもりといった、自分とこの世界をつなぐ感覚が全部消滅してしまうんじゃないか。そんなことに怯える夜。


 消滅した事にも気付かないで、次なる別の何者かの意識を探すべく「魂」という塊になってどこかの次元を飛び回るんだろうかと考える。


 今の記憶や未来への希望、過去の喜びや悲しみが全部リセットされて、自分という存在が無かったことになる。

 どれだけこの世に徳を積み、影響を残したとしても、存在していたこと自体無かったものとされるようなことが起こったら・・・

 考えるだけでぞっとする。


 そんな恐ろしい思いが、リアルな感覚として意識を、全身を覆うことがある。

 何とも言い表せない怖さ。


 「あなたがこの世に存在しているということは、とてもとても不安定なことなんですよ。あなたは自分がこの世に存在していると思っているかもしれないけど、実はあなたがそう思い込んでいるだけで、あなたはこの世にはいない存在なんですよ。」

 そんなことを耳元で囁かれているような夜。



 子どもの頃は、今よりもっとそういうことを思っていた気がする。


 41日。

 世の中では、エイプリル・フールと呼ばれている日だ。

 自分はその日に生まれたらしい。


 子どもの頃、この誕生日のおかげで、「うそやろ?誕生日っていうのうそなんやろ?」と言われたことが数え切れないくらいある(大人になってからでも普通にある。社交辞令として。お約束の反応として。)。

 そんなのはかわいい方で、「存在そのものがうそなんやろ?」という、なかなか秀逸なコメントももらったことがある。


 小学校の時、そのことで1度、同級生の男の子と喧嘩をしたことがある。

 それ以来、「どんな悪口を言ってもいいけど、存在に関する悪口、変えようの無いことについての悪口は絶対に許さない。」という、子どものくせに変に賢ぶったような信念みたいなものを持つようになった。

 でも、毎回毎回とげだって周囲に憤りを感じるのにも疲れてきて、だんだんどうでも良くなってきた。言われると、ちょっとはムッとするけど。


 あまりにも言われすぎると、そして自分の中で1度怒りの沸点を迎えると、「あ~あ、またこのやり取りか~しょうがないな~」と、一皮向けたような境地に至ることがある。

 こういう感想を意識に上らせることで、めげないように自分を守る仕組みを作り上げているのかもしれない。 


 今では、子どもの頃に得たそういう傷のおかげで、「自分という存在」について考えられる大人になったとも思っている。感謝すらしている。


 自分って何者?

 自分って今ここにいるの?

 自分が存在しているってどういうこと?

  

 自分が哲学から離れられない理由は、このあたりの経験にありそうだ。


 それにしても。


 こんなことを考える自分が、ダンスという、やっている人はみんな明るそうな営みを仕事にしているんだから、おもしろい。

 

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 社会に出ると、次から次へやることが出てきて、腰を落ち着けて思索にふけるということが出来ない。全然出来ない。本当に出来ない。


 考え始めたと思ったらすぐに中断されて、日常の忙しさに融けていってしまう。

 そして、また落ち着いて考え始めようとしても、「さっきは何をどこまで考えてたっけ?」みたいに忘れてしまって、「めんどくさいし、もういいや。」と、せっかくの思索の種を記憶の闇に葬ってしまう。


 もったいない。

 そう思うのは自分だけだろうか。


 頭の中に高速道路が走っている。

 思索の端緒となるアイデアや閃きは、そこを走り去っていく車。

 だから、去っていくまでにスケッチしたり記憶に留めておかないと、2度と思い出せなくなる。「あぁ、あの車かっこ良いな~」とその瞬間思っても、自分に食い込んできた特徴を記録しておかないと、「かっこ良かった」という印象だけが残って、どの部分がかっこ良かったのかを忘れてしまう。


 そんなイメージ。


 すばらしく先進的な車が加速を始めたと思ったら、日常という怪物がフリーウェイ自体をぶっ壊して、車もろとも粉々に砕いてしまう。

 外的な要因で思考を中断されるということは、そういうこと。

 

 だから、その時に備えて、いちいち記録しておいた方が良い。

 何かがあった時に、一時保存して、またそこから再開できるように。


 人生に関する答えの出なさそうな疑問。

 そういうのを考えすぎるのは、疲れる。

 けど、考えなさ過ぎるのも嫌だ。なぜか分からないけど。


 「答えが出なさそうだから、考えるのは意味が無い」と言うつもりもないし、「人生についての諸々の営為を考えるのは、人間が生きる上で何よりも大切なことだから誰もが最優先に取り組むべきだ。」と言うつもりもない。

 そんなストイックに生きる自信はない。

 

 いろいろ工夫をしながら、思考の軌跡を留めていきたいと思っています。


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