昨日は知人と韓国料理を食べに行きました。
信じられないぐらい、たくさん食べてたくさん飲んで。
サムギョプサルと海鮮チヂミ。
野菜たくさんにご飯もたくさん。
コチュジャンとごま油もたくさん。
ビールもたくさん。
ばくばくと豚肉と葉っぱを食べ、黒ラベルの大瓶からこぽこぽと黄金色の液体をグラスに注ぐ。
同じ姿勢を維持するのが苦しくなって、何回も座り直し。
いつもいつも本当に・・・
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何かを考える、ということはとても刺激的なこと。
最近特にそう思う。
あらゆることが「なぜ?」の対象になるから。
"常識"と呼ばれるものから自由になれるから。
なぜ、空の色は青色と呼ばれているの?
なぜ、社会人はスーツを着ないといけないの?
なぜ、あの人に敬語を使わなければいけないの?
なぜ、夜なのにサングラスしてるの?
なぜ、人の目を見ないと失礼だと言われるの?
頭の中でなら、そんなことも考えても良い。
誰にも迷惑がかからないし。
それに、もしかしたら、考えるうちに、何かが見つかるかもしれない。
さらに深い問いへの言い換えに至るかもしれない。
それは、人生にとても役に立つと思っている。
実際に役に立つと思っている。
新たな行動指針として、自分の中に育っていくものだと思っている。
ま、でもこういう疑問はうまく管理しておかないと社会生活はできないんだろうけど。
うまくコントロールしよう。
ひとまず。
「こんなことを考えるなんて、なんて自分は不道徳なんだ!(わなわな・・・)」とか、
なんて恩知らずなんだ!
なんて薄情なんだ!
というふうに考えて、反射的にそれについての思考をストップしないことにした。
「いけない。いけない。こんなことを考える自分はどこかおかしいんだ。疲れているんだ。寝れば治るだろう。寝よ。(すやすや...)」
というふうにごまかさないことにした。
その代わりに。
例えば、こんなに良くしてもらっている人に対して、"何か嫌だな・・・"と思ってしまった時、「あぁ、なんて自分は出来ていない人間なんだ(とぼとぼ)・・・」と、塞ぎ込まないで、その感情を冷静に観察することにした。
そして、「恩義を感じる人に"何か嫌だな・・・"と思ったことは仕方が無い。理不尽だけど。そう思ってしまった事はしょうがない。」と認めてしまう(自分にとってはこれが大変。やっぱり自分は、誰に対しても"嫌だな・・・"とは思いたくないから。)。
そして、自己嫌悪ゆえに醸し出してしまう"負のオーラ"のようなもので、相手に不快な思いをさせたり("こいつ、こんなに良くしてやってるのに恩を仇で返すような態度とりやがって!"みたいな思いをさせること)、その"オーラ"を周りに伝播させないように、上手なコントロールの術を磨いていくのが生産的な思考の方向だと思う。
自分を押し殺して無理に笑顔を取り繕う、という方法ではなくて。
社交ダンスでは、生徒さんやパートナーやコーチャーと、言葉で会話するだけでなくて、身体と身体を触れ合わせて会話することが多くある。
組んで踊るから、相手の微細な筋肉の動きも伝わってくる。
だから、無意識レベルで"何か嫌だな・・・"と思う事も日常的にあるし、思われる事もたくさんあるはずだ。ただ言葉を交わすだけの時以上に。
その"何か嫌だな・・・"をいかに表に出さないか。
いかに相手を傷付けずに会話を続けるか。
そういうところの技術的な問題だと思う。これは。
自分が今まで、対人関係でそれほど傷付けられなかったのは、これまで接してくれた人達の意識的、無意識的な技法に負う所が多かったからなのかもしれない。
自分に対して向けられた"こいつ何か嫌だな・・・"という直観を、自分に知らせまいとしてくれる温かな精神に恵まれていたからかもしれない。
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韓国料理屋に入る前、本屋さんでおもしろい本を見つけました。
『「エコ恋愛」婚の時代―リスクを避ける男と女』(牛窪恵:光文社新書)。
20代から30代に広がる現代の結婚観について書かれた本。
その中で気になった部分。
「恋愛→結婚」という従来のプロセスが支配的だった時代は、だんだんと弱まりつつある。
というところ。
「恋愛しなきゃ結婚できない(してはいけない)」といった価値観を採用する人が、だんだんと希少になってきているということ。
めちゃくちゃ新鮮。
この考え方は社交ダンス界にも援用できるんじゃないか。
そう直感。
ということで、今度(たぶん今週中)、「社交ダンス界のサクセスモデル」とからめて、何か整理していければと思っています。
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