#107 平田オリザと社交ダンス3

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   ≪アルストロメリアとトルコギキョウ。淡い色合いが心を涼しくしてくれます。≫


シリーズ再開です。

 

【演劇の演技】と【社交ダンスの表現】。

 

演劇の世界で言われている"演技"についての考え方と、

社交ダンスの世界に浸透している"表現"について、

何かを考えたいと思います。

 

今回は②番目。


       ②演技(表現)の方法論について。


要するに、「"演技"って、どういうふうにやるの?」ということ。


先に言うと、


      ●演技には2つの方法がある。

      ●それは、「役になりきる」方法と「素をさらす」方法。

      ●社交ダンスも同じで、

      「なりきっちゃう」部分と「"ふっ"と素に戻る」部分の

       絶妙のバランスで構成されている。


こんなところです。


補足する形で、もう少し見ていきます。 


**************************************


平田オリザさんは『演技と演出』の中で、

演劇の世界で用いられる演技の稽古の方法として、

次の2つの方法を挙げている。


      ⅰ.役になりきる方法

      ⅱ.役になりきらない方法


この2つ。


.役になりきる方法は、とてもポピュラー。

 

演劇の世界では、

これをスタニフラスキー・システムと言うらしい。


自分が木を演じる時に、

「私は木。私は木。」と念じて、

木の気持ち(あるとして)に、

自分の気持ちを同化させようとする方法。

 

演劇をしたことが無い人でも、

「さぁ、この役を演じてみましょう!」といきなり言われたら、

とりあえず、その役の気持ちを想像して、

自分も同じ気持ちを追体験しようとするんじゃないだろうか。

 

それが、一般的に採用される演技の方法だと思う。

 

だから、


嬉しい気持ちを演じる時は、

自分が嬉しかった時の経験を掘り起こして、

思い出して、そこから気持ちを外に出そうと試みる。

 

悲しい気持ちを演じる時は、

自分が悲しかった時の記憶を引っ張り出して、

それをきっかけに悲しみを表現しようとする。

 

自分が経験した事のない状況を演技しないといけないにしても、

その状況に似た経験を自分の内面から掘り起こして、

出来るだけ近い気持ちになろうと努力する。


そして、それを外に出そうとする。


まず、

先に「気持ち・感情」があって、

その「気持ち・感情」が、外への表現(情感)として現象する。   


つまり、

「気持ち」を込めて役になりきれば、

うまくいく(観る人に伝わる)という考え方。

 

こういう方法。


この方法の前提には、基本的に、


         「思い入れが強ければ強いほど、

          気持ちが入れば入るほど、

          演技にも凄みが出て、観る人に伝わる。」


という原信憑がある。

疑われることのない前提というか。


そういう部分もあるだろうけど、

そうでない部分もある。

 

入り込みすぎて引かれてしまう、

ということは良くあると思う。

 

社交ダンスも同じ。


曲調に合わせた表情や、

音の取り方なんかの表現の違い。

 

曲や振り付けや、

その種目に対する踊り手の思い入れの強さなど。

 

そういうのが、"情感"となって、

観る人の心に伝播していく。 

 

曲によって、種目によって、振り付けによって、

"入り込み具合"を変化させる。

 

そういうのが、"味"となって、

技術に対する以上の感動を観る人に与えることになる。

 

でも、踊りに入り込みすぎると、周りが見えなくなる。

周りが見えなくなると、踊りが暗くなる。

一生懸命には見えても内にこもった踊りになる。

内にこもった踊りになると、

力感だけがフォーカスされて、芸術性から離れていく。

 

見る人も肩がこってくる。



逆にⅱ。

 

       役になりきらない方法。

 

演劇の世界では、

ベルトルト・ブレヒトという人の影響が大きい方法のよう。


平田オリザさんによると、

演技に対する


「観客の感情移入、物語への同化を妨げる」


ことが目指されている方法。


「これは演技なんですよ。フィクションですよ。」


というメッセージを、

あえて伝えようとする。

 

そうやって、


「観客が、常に冷静に物語を観察し、社会への批判能力を高める」


ように考案された演技の方法らしい。


ちょっと衝撃。

 

感情移入を否定するんだから。

 

演劇なんかの「表現もの」の究極の目的は、


自分の提示する物語に観客を引き込んで、

感情移入させて、

言ってみれば、

「自分の世界の虜にする」ことだと思っていたので。

 

そうではないことが目指されている、

ということに驚き。

 

とても新鮮。



社交ダンスにも、そういう所がある。

観客の感情移入を拒む部分。

寄ってきてくれる観客をあえて引き離す部分。


気合を充実させて、力感を豊富に表現していた時に、

"ふっ"と力みを抜くような瞬間を作る。

 

音楽に入り込んで、2人の世界で演技していたと思ったら、

突然"ニヤッ"と、観客に微笑みかける。


そうやって、

演技の中にも一瞬、「素に戻る」時を作る。


そうすることで、観る人に、


呼吸する暇を与えるというか、

息継ぎする時間を与えるというか、

冷静になってもらうというか、

目の前の世界を相対化してもらうというか。

 

演技にのめりこんだ観客を、

一瞬"あぁ、この人も人間なんだ。"

みたいな安心感を持ってもらうというか。

 

なんか、うまく言えないです・・・



平田オリザさんによると、


          演技には2つの極があって、

          近代の演劇史は、程度の差はあれ、

          この2つの極の間を行ったり来たり

          しているのだそう。


社交ダンスの表現にも同じように2つの極があって、


踊り手は、

その配分を自分なりに考えて、

その人にしかできない踊りというものを追求しようとしている、

もしくは指導しようとしているように見える。

 

意識しているかどうかに関わらず。

 

社交ダンスの表現における、2つの極。


    ①感情いっぱい(入り込む・ハードに踊る・力感重視)

    ②素に戻る(リリース・抜き)


この2つの表現を行ったり来たりしている。


社交ダンスを踊る人は、

そうやって自分の表現を模索しているように思えます。


次回は3番目。

「コンテクストのすり合わせ」についてです。

 

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