人類学者の中沢新一さんによると、
人間には2つの知性があるようです(『芸術人類学』)。
「論理的思考」と「対称性の思考」。
「論理的思考」は、言葉そのものの意味を厳密に対応させようとする知性。
「対称性の思考」は、論理的に矛盾する事でも成立させて考えられる知性。
こんな感じです。
言い換えると。
前者は、「きれいはきれい。」「高いは高い。」を是とする知性。
言葉どおりの解釈を奨励し、それ以外は"矛盾"という呼び名が冠される知性。
後者は、論理的な矛盾を許容し、両極にある価値の距離をゼロにしてしまう知性。
例えば、「きれいはきたない。きたないはきれい。」「大きいは小さい。小さいは大きい。」とか、「自分は今日のコンペで優勝した!だから、自分は今日のコンペの最下位だった!」といったような、論理的には筋の通らない、訳の分からない表現が成り立つ。
後者の「対称性の思考」は、よく、「情緒」とか「感情」と表現されることが多いようです。
自分の理解が浅いために、「対称性の思考」という表現は、「論理的思考」の対に当たる表現として、あんまりしっくり来ていません。特に「何と何が"対称"なのか?」という所がまだよく整理できていません。
この辺は、テキストをよく読んで「言葉の厳密な意味」をもう少し追求する必要があると思います。
なので、以降では「情緒」というなじみの深い表現に置き換えさせてもらって、進めたいと思います。
もっと思い切って両者を言い換えてみると。
「論理」は、理屈。
「情緒」は、心。
そんな感じに言えると思います。
よくテレビなんかで、ショー的に、この2つの立場を体現している人が映されています。
「心って何?目に見えんの?数値化できんの?」と、可視化できないものを"劣ったもの"と見なす人。
「理屈じゃねぇ!心だろ、心!」と、恐喝まがいに強弁する人。
程度の差はあれ、こういう態度のキャラクターが、"極に立つ者"として、劇中に必ず登場します。
前者は、「論理(理屈)」に絶対的な価値を置く人。
後者は、「情緒(心)」に絶対的な価値を置く人。
テレビや演劇では、そんな2つのタイプの人間として、異なった2人の役者が演じるのが常のようです。
しかし、1人の人間の中には、この両者の性質が本来的に同居している。
ただ、今はどちらかの顔が出しゃばりすぎていて、片方を萎縮させてしまっている。
そう考えるのが、中沢新一さんの思想のようです。
これは、禅の世界の「行雲流水」という考え方にも通じます。
(詳しくは【雲水喫茶】をご覧ください・・・)
この考えによると、人間がものを考え行動するということは、この、性質の異なる2つの知性の協働であるようです。
中沢新一さんは、この2つの知性の協働のことを、「複論理(バイロジック)」という名前で呼んでいます。
ということは、人間は本来的に、ルールを守る勤勉で従順な生き物であると同時に、ルールを破り、ルールを越えて、新しいルールを作ろうとする、破壊的な生き物でもある、ということだと思います。
理屈っぽくて、几帳面で、でもどこか抜けていて、ロマンチストで、支離滅裂で、意味不明なことを口走って、だけど時に筋の通った正論を言ってみたり、勤勉であったり、正直であったり、また嘘つきであったり、怠け者であったり・・・
こうやって、1人の人間の中に、人間を形容する全ての要素が入っていると思っています。その人その人によって、構成される要素の配分が違うだけであって、人間は基本的には全ての要素を、本来的に持っていると思っています。
そして、これらの形容表現が「論理的な部分」と「情緒的な部分」に大別されるということだということです。
まとめると。
①人間には2つの知性がある。
②それは、「論理的」な部分と「情緒的」な部分。
③この2つの知性の協働(バイロジック)が、人間の知性の本来的な働かせ方。
こんなところです。
自分は、中沢新一さんの"人間の知性"についての考え方に興味を覚えました。
そして、彼の考えを自分の言葉に変換するために、自分の身に引き付けて考えてみたいと思います。
具体的には。
社交ダンスの世界でいう、"論理"の部分と"情緒"の部分は何を指すのか?
社交ダンスの世界で、複論理(バイロジック)を働かせるとどういう現象が起きるのか?
人間が2人で踊る上で、どういう点で、複論理(バイロジック)が必要なのか?
そんな課題です。
社交ダンスに限らなくても、いろんな対象に対して問えそうな問いだと思います。
農業に従事している人、整体師、ショップの店員、留学生、キリスト教徒、政治家、看護士、大学生・・・
それぞれの立場の人にとっての"論理"と"情緒"は何なんだろうか。
それぞれの立場の人にとっての複論理(バイロジック)とは、どんな現象なんだろうか。
そんなことを考えると、ちょっとわくわくしてきます。
次回は、具体例を挙げながら、もう少し考えたいと思います。
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