悪くなるかならないか、境界線を行ったり来たりしているような。
何かをきっかけに、一瞬で悪くなりそう。
それが何かは分からないけど。
昨日からの風邪の話です。
熱は落ち着いたみたいですが、のどをやられています。
鼻も詰まっています。
結局、栄養ドリンクを飲んでしまい。
出来るだけこういうのに頼りたくなかった手前、少しのうしろめたさを感じています。
"論理"と"情緒"の協働の例。
それの続きです。
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【Case2:「地球の姿を聴く」というコピー】
職場への道途中、街中で「本当の地球の姿を聴こう!」という、何かのツアーの看板を見ました。
コンビニの壁面やバスの停留所に貼られてあったので、発信元は結構ビッグな団体なんでしょう。
これに対して。
"論理的思考"を主導させて観察すると、
「(地球の)姿を聴くって・・・姿は聴くもんじゃなくて見るもんだろ・・・」なんていう突っ込みしかできません。
それでも良いんですが、やっぱり物足りない。
乾きすぎた感じがして、もう少し潤いがほしくなります。
"情緒"の知性を作動させてみます。
言葉として、ちょっとした違和感を感じつつも、自分が「地球の姿を聴いている」状況を思い浮かべてみる。想像してみる。
活火山からどろどろとマグマが流れ出る様子や、ざざざざーっと落下する大瀑布が生み出す霧のカーテン。
そよそよと風に揺れる道端に咲く花や、もくもくと湧き出てくる青天に映える入道雲。
そんな風景を想像してみます。
音に注目すると、地球の姿を聴くことも簡単にできそうです。
そよそよとか、もくもくとか。
たぶん、そんな音は出てないんでしょうけど、そういう表現を借りて、自然の風景を擬似的に聴く。地球の姿を擬似的に聴く。
そんな方法です。
そう言えば、油絵が趣味の生徒さんからの話ですが、「私には、"風"を描くのが一番難しい。」と言っていたのを思い出します。
"風"を描こうと思ったら、木の葉とか、カーテンとか、目に見える物体の姿を借りて、間接的に描くしかない。そうらしいです。絵の世界では。
文章で"風"を表現しようとすれば、"そよそよ"とか、"びゅうびゅう"とかいった擬音という形になるんでしょう。
「音」という言葉についても考えてみます。
論理的思考の知性が主導的だと、「音」は、「聴く」ものでしかありません。対応する動詞は、「聴く」に類するものしか使えません。
でも、情緒の知性を作動させると、「音」は、描いても良いし、食べても良いし、吐き出しても良いし、ひっくり返しても良いし、びりびりと破っても良い。何しても良い。
「音って聴くもんだろ?音をひっくり返すって、意味分からなくね?」
こういうことを言う人は、完全に前者の立場。
確かに正しいけど、おもしろくない。
あとは、聴いた人が情緒の知性を作動させて、「音がひっくり返るってどういうこと?」
とか、「音がびりびり破れるってどういうこと?」といって、自分の感覚に即して想像し、音がそういう状況になっている様子を現実的に具体的に創造するという話。
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言葉そのものの持つ意味を越えたところに思考の領域を延長させることで、いろいろな可能性を考えることができる。
それが想像力なんだと思います。
こういうところが、よく言われる「相手に対する思いやり」とか、「相手の気持ちを想像する」とかいった言葉が表している内容だと思います。
"論理"では、行き詰まった対応が、"情緒"では、その原因を探る思考への入り口となった。そういう協働の形。
単純に考えて、現象に対して1つの知性で対応するよりも、質の違う2つの知性で対応する方が、対応の引き出しが増えるはず。
実際には、どっちかの知性がオンで、どっちかがオフ、という作動の仕方ではなくて。
常に両方がオンの状態。
そして、主導するのがどっちか、という仕組みだと思います。
自分がどういう仕方で、ものを感じ、考え、行動に移しているのか。
それに1つのヒントを与えてくれるのが、中沢新一さんの「複論理(バイロジック)」のようです。
もっともっと、自分の身に引き付けて、考えて、言葉を探していきたいと思います。
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