昨日の札幌は、雨降り風吹きで、荒れた天気でした。
涼しくなった空気に雨滴が混じって、
何やら不穏な気分になってきます。
体調を崩してしまって、また間が空いてしまいました。
鼻声は残りますが、だいぶ回復。
また再開です。
哲学する人は、ピュアなんだと思います。
自分が嘘をついていることに敏感な人だと思う。
自分が演技をしていることについて敏感な人だと思う。
この場合は、こう振舞いましょうか。
この場合は、こういうキャラで行きましょうか。
そういうスイッチの切り替えに、強烈な違和を覚える人。
違和感を我慢して、スイッチを切り替えることができない人。
「こういうもんだ。」と、無理やり自分を納得させるというテクニックを使えない人。
哲学する人 = 暗い人
というのは、当たっていると思う。半分は。
みんなが共有する、「共通の儀式」に参加すること自体に疑問を抱いてしまうから。
例えば、大勢で飲みに行った時。
最初に全員に飲み物をまわす。
誰かが乾杯をコールする。
飲み会の始まり。
だいたいそんな流れになる。
そういう"お決まりの"儀式に対して、「ん?何でこんなことしなきゃならないんだ?」とか、「何でこういう風習が定着したんだろうか?」とか、「みんなは何を求めてこういうルールに従ってるんだ?」とか、そういった、とてもとてもめんどくさいことを考えてしまう人。
それが哲学をする人だと思う。
そういった「なぜ?」の気持ちを、その場で外に出してしまう人。
疑問を家に持ち帰って、改めて沈思黙考する人。
タイプはそれぞれだと思う。
たぶん、世の中に形成された「哲学=暗い人の嗜み」みたいな図式は、前者のタイプを指してのことだと思う。
自分は、仲間外れにされるのも嫌なので、前者のようにストイックに哲学できない。
だから、"こっそり"哲学する。
そういう方針にしています。
自己観察を繰り返した末に獲得した「自分語」。
そういう言葉を語る人は、ただそれだけで尊敬に値する。
そう思います。
自分はそういう人になりたいと思います。
自分という物語を、自分に聞かせるために語りだす。
それが、誰かの共感を得て、聞き手が自分以外にも生まれてくる。
矛盾しているようですが、きっとそうなんだと思います。
語りだされた物語は、自分以外に伝播して、感性の近い他の人に共有されていく。
そして、その人独自の物語にアレンジされていく。
そんな仕組みのような気がします。
こういう根源的な問いは、仕事をしていて忙しいと、不思議なくらい忘れてしまえます。
社会人になってから本当に良く分かりました。
本当に不思議なくらい、忘れてしまえる。
忘れることが社会人の条件みたいな、空気も感じる。
仕事をする上で、そんな疑問は不必要なんだよ。
というささやき。
それはとても嫌なので、いつまでも頭の片隅に、根源的な問いを残しておくようにしています。
今回はこの辺でzzz
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