#153 線引きは何のため?ー社交ダンス界に見る"ボーダーライン"

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《札幌大通公園。好天の下、整列したチューリップが美しい。》
快晴です。

昨日、今日と、札幌はお日柄も良く。
見上げれば水色の空。
大通公園には初夏のにぎわいが。
この季節の札幌は最高です。

さて。

先日、桑山先生から興味深いお話を聞きました。

     人間は、年を重ねるとともに
     境界に対する厳密さがなくなってくるんじゃないか。

こういうものでした。
おもしろい。
そう思いました。

   若い頃は、白か黒かをはっきりさせたがる。
   でも、加齢とともに、その境界がぼやけてくる。
   自分の中にある「白と黒との間にあるはずの境界線」がどんどん
   太くなっていって、白でも黒でもない領域が広がっていく。

   さらに言ってしまえば、「どっちでもよくなる」。

ぼくは、このように理解しました。

生と死。
明と暗。
上と下。
現在と過去。
こどもと大人。
学生と社会人。
などなど。

様々なものの間に引かれるボーダーライン。

    「ここからここまでは"生"。ここからは"死"。」とか、
     そういう線引きを、若い頃には積極的にしようとし、
     年を重ねるとともに分からなくなる
    (どっちでもよくなる?)。

今回は、こういうことについての話です。

この時に感じた「おもしろさ」を、
より形のあるものに変換させていくためにも、
自分の経験に照らして、何かを考えてみたいと思います。

社交ダンスの世界に見られる、
一番分かりやすい境界は。

それは、男と女。

だと思います。

より正確には、男の役割と女の役割。

というのも、
男の足形と女の足形が明確に区別されているからです。
生物学的な「男」「女」ではなく、
踊り手が「男の足形を踊っているのか」「女の足形を踊っているのか」が重要なのです。

ぼくは、プロになって競技会に出ていた頃は、
男と女の役割をはっきり区別しようとしていました。
今思えば、できなかったことに対して、責任の所在を
「どっちか」に決めてしまおうとしていたのかもしれません。

うまくいかない時、
「自分の責任」か「相手の責任」か。

この2つの極を拠り所にして、
練習を実りあるものにしようとしていたのかもしれません。

レッスンを受けた時も、今のはどっちの責任か、
ということをはっきりさせることが求められていたように思います。

つまり、

自分と相手の役割にはっきりと区別する、境界線を引く、という行為は、実は、
「責任の所在をはっきりさせる」ということだったようです。
少なくともそういう面があったと思います。

練習中はいつもぴりぴりしていて、
自分が責められないことが、
一番の目的になっていたようにも思います。

向上していく上で、この態度はかなり問題があるようにも思えますが、
こういった心の動き自体は、
社交ダンスの世界競技会に出ている人達なら、
きっと誰もが経験することだと思っています。

     ぼくは、この、自分と相手との間にある「役割上の境界」を、
     はっきりさせようとしていた。
     そして、それは、うまくいかなかった時に責任の所在を
     正確に追及するために機能していた。
     そうやって、境界線を明確にすることを意識的に行っていた。
    
そう言えると思います。

ただ、
この心の動きは、
ぼく一人だけのものではないと思っています。

相手と組んで踊ることが前提となっている社交ダンスの世界
競技会に出たことがある人であれば、
一度は経験した感情の流れだと思います。
自分自身が、そのように思おうとしている部分もあるでしょうし、
周囲からの圧力という形で、そう思うように方向付けられるというか。
そのように思わせる力の源については、
いろいろと考える余地はありそうですが。

競技会という営みから一度離れた身であるからこそ、
その当時に自分が無意識に従っていて見えなかった枠組みを、
外からの視点としてあぶり出せるように思っています。

そのおかげか、今は、うまくいかなかったとしても、
「自分が悪い」「あなたが悪い」という低次元の2分法で
解決をはかろうとしなくなったように思います。

考えてみれば、社交ダンス2人で行う営みです。

2人の独立した人間が行うわけですが、踊るユニットは1つ。

つまり、
お互いが、組む以前に持っていたバランス感覚であったり、
筋肉の感覚であったり、方向感覚であったり、音楽に対する
感覚であったり、そういう諸々のことを改変し、
新たな生命体としての感覚に書き換える必要があるのです。
(『2人で1人』2009年10月)

そんな営みにあって、
「今のはあなたが(100%)悪い。」とか、
「今のは全て自分が悪い。」とか、っていうのは、
ちょっと違うのかなと思います。

問題解決の道としては、ちょっとズレているというか。
そんな気がしています。

だから、

社交ダンスの世界こそ、境界のあいまいさをそのままに、
2人の人間の融合を前提に、
問題を解決する方法を探っていくべきなのかなと。
そう思います。

そして、

これは社交ダンスの世界に留まらず、
人間関係一般に役に立つんじゃないかと。
そこまで思います。

以前、

分類思考の世界:なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』
(三中信宏:講談社現代新書 2009年)

という本を読みました。

それには、
人間が様々なものを分類してきた歴史がつづられていました。
そして、
人間が物事を分類するということは、
不安を解消したいという気持ちの表れである、
というようなことも書かれていました。

分類するということは、

       名前を付けるということ、
       線を引くこと、
       自分にとって有益か無益か、
       安全か危険かを判断するということ。

人間は分類しないと不安らしいのです。

分類によって定義された(少なくとも)2つの領域の間に
線を引くということはいったいどういうことか?


今回はそういうことについて考えてみました。

久しぶりに長くなってしまいました・・・

最後まで読んでくださった方、
ありがとうございます。
おつかれさまでした・・・

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