今、日本の政界がにぎやかです。
ぼくは典型的な無党派層です。
はっきり言って、誰が総理になってもどうでも良い。
そう思っています。
これはきっとぼく一人の感覚ではないと思っています。
多くの人が似たような感覚を抱いていると思っています。
確かに、総理としては、しっかりした考えと実行力のある人がリーダーになって、
世界の中で堂々と振る舞える日本をプロデュースしてほしいという気持ちもあります。
でも、ぼくはそれよりも、
自分のような一般的庶民の心の中に、
どのようにして「政治」というものが形作られているのかに興味があります。
どうやって、政治について意見を言う自分が出来上がっていくのか、
そんなことについて興味があります。
そして、
政治について語る上で二の足を踏む原因である(とぼくが思っている)
「自分より詳しい人に任せれば良い」という
謙虚さというか劣等感というか卑屈感というか、
そういうふうに考える傾向に興味があります。
まず、
自分の中にどのようにして「政治像」が出来上がっていくのかについてです。
自分の感覚に即してして言いますと、
自分の中での日本の政治というのは、
テレビ、もしくはネットによって形作られる。
そう思います。当たり前のようですが。
自分では認めたくないかもしれませんが、
今自分が政治に対して持っている意見というのは、
きっとテレビで誰かが言っていたことだと思います。
テレビで、かしこぶったコメンテーターが、
「鳩山さんは無責任だ!」とか言うのを聞くと、
「へ〜そうなのか〜、」という気になる。
政治通で知られる芸能人が
「庶民の感覚として考えられないですよね。」とか言うのを聞くと、
「そうかもな〜」という気になる。
そういう場面をくり返して経験していくことで、
自分の中に「日本の政治像」が形を持ってきて、
他の人に対して意見を言えるようになっていく。
誰かの流した情報を適当に取捨選択して、
自分の中で今の日本の政治像を作っていく。
だいたいそんなものだと思います。
テレビでなくても、周囲に次のような人がいたら
「なるほど〜」となるんじゃないでしょうか。
「おれはこんなに政治のことを勉強してる!
だから(普通の人よりも)今の日本の政治の窮状を知っているし、
問題点も知っている!それは○○だ!だから□□すべきなのだ!」
という人。
では次です。
知識の量をどう考えるかについて。
知識を得ようとしても限りがありません。
政治についてどこまで知っていれば、
政治に対して意見を言うことができるかというのは、
基準がありません。
それはいろいろなことに対しても言えると思います。
社交ダンスの世界で言うと、
チャンピオンじゃないと社交ダンスの技術について語れない、
というわけではありません。
下位クラスの選手だって技術についてあれこれ言って良いはずです。
チャンピオンにしか語る資格はないんだったら、
社交ダンス教師という仕事は成り立ちません。
世界に数えるほどしか存在し得ないことになります。
そんなことになったら大変です。
また、世界チャンピオンであったとしても、
技術について極めているとは言えないかもしれません。
他の選手に比べて「相対的に」極めているというだけであって、
技術について語って良いかどうかという資格はないのかもしれません。
つまり、ここで言いたいのは、
「それについて語って良い」という許可は、
誰も出せないということです。
神様のような存在がいて、
「よしよし、おまえは、業績もあるし熱心に勉強もしているから、
そろそろそれについて語っても良い。」
というようなお墨付きを出すようなことはあり得ない。
そう思います。
政治についてもそう。
「ここまで知っているから語って良い」という基準はない。
ということは。
原理的には、
どんな知識レベルの人でもそれについて意見を言って良いということです。
知識の不足を指して「あなたにはそれについて言う資格はない!」
という言葉を日常的に良く耳にしますが、
そんなことはない。
誰もが何についても言っていいはずです。
原理的には。
政治の動向を知ろうとしないのが悪い、勉強不足だ。
とか、いうのはひとまず置いといて。
それが現実です。今持てる知識量で判断する。
今のレベルでなんとかする。それを前提としておく。
それが大切だし、そうならざるを得ないです。
時間は有限なので。
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