#163 理論は難しい?

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《ミルクの缶が白鳥(?)に。手を加えることで別物へ。これぞアイデアの力です。》

理論という言葉があります。
日常ではあまり聞き慣れない言葉だと思います。

難しい響きも手伝って、
この言葉を聞いただけで拒否反応を起こしそうです。

でも、最近思いますが、
僕たちは日常的に理論を使っているし、作っている。
そう思うようになりました。

偉い人の専売特許ではなく、実はみんなのもの。
そう思うようになりました。

例えば、人間関係。
自分がある人のことをどう思うかについて。

      昨日会った時、その人は、
      電車の中でおばあちゃんに席を譲ってあげていました。
      今日会った時、その人は、
      電車の中で車いすの人が乗車するのを手伝ってあげていました。

例えば、こういう光景を目にしたら、
僕たちはその人に対して「優しい人」というイメージを
持つんだと思います。

いくつかの具体的な行動の例から
「その人像」なるものを自分の中に作り上げる。
この時に作られた「その人像」。
これが理論だと思います。 

具体的な、個別な現象から、
「だいたいこの人はこういう行動をするだろう。」とか、
「この人はこういう人だろう。」
といったイメージを作り上げて、まだ現実になっていない、
その人の次の行動を予想しようとする。

詳しく言うと、
帰納的に理論化する」という言い方ができると思います。

帰納」とは、
いくつかの個別の行動や出来事から「次はこうだろう」
という一般的な法則を見いだそうとすることです。

「理論化」とは、「その人像」を作るということです。 

ぼくたちは、他の人に対して、
こうやって接しているんだと思います。

そして、その人に対して
「ああ、この人はこういう人なんだな。」と理論を作ることを
「その人を理解する」と呼んでいるようです。

だから、理論というものは、
僕たちが日常的に触れているものなんだと思います。

自分オリジナルの理論を作ってるし、
使って修正してまた新しいのを作っている。

そう考えると、理論という言葉に対する抵抗もなくなるのでしょうか?

さておき。

でも。この理論。

人間関係に使う時には注意しないといけないと思います。

それは。

「理論で現実を覆ってしまう」こと。

つまり、
現実というのは、その瞬間瞬間に常に新しいことを生み出しているのに、
過去に作った理論によって、
現実に起こっていることを見落としてしまうことがあるということです。

言い換えると、

いくつかの行動を見て作り上げた「その人像」を
自分の中で固定化してしまって、
そのイメージからはみ出す行動をした相手に対して
「そんな人だとは思わなかった」という評価を下してしまうことです。

これは日常的によくあることだと思います。

      「優しい人」だと思っていたのに、
       そんなひどいことをするなんて。

      「良い人」だと思っていたのに、
       実は悪い人だったのね。

とか。

「その人像」は自分が勝手に作り上げたものです。
その人の一面を自分なりに解釈した結果です。

なので、

現実のその人は、
そのイメージからはみ出した行動をすることは当然なのです。

なのに、

一度作り上げた「その人像」にとらわれてしまうと、
そこからはみ出した相手を、
さも悪いことをしたような、
規則を破った人のような存在として見てしまうのです。

こういうことってないでしょうか?

これが、
「理論で現実を覆ってしまう」ということだと思います。

理論はあくまでその瞬間のその人の行動だけを説明するものです。
次の瞬間には現実にすぐに乗り越えられてしまう。
そういうものだと思います。

これまでの科学では、
どの時代もどの場所でも一律に通用する法則の発見、
そしてそれの利用というのが至上目的のように考えられてきたようですが、
少なくとも人間関係についてはそうではないと思います。

「やったー!すばらしい理論ができた!」と言って喜んでも、
次の瞬間にはそこからはみ出す現象は観察されるので、
常に改良の余地を残しておかないといけないと思っています。

人類学の潮流も同じです。
普遍的な法則の発見から、常に新しいことを生みだす現実への注目。

うまく踊れて言葉で説明できたとしても、次の瞬間同じ経路で再現できるかどうかは分からない。

「いやそんなはずはない!この理論は正しいのだ!」と言って
自分の作り上げたものにこだわって、
現実を見ようとしないのはよろしくないと思います。

「この理論は正しい」と言って、
それに修正を迫る現実に目をつぶる人と、

「私の考えは正しい」と言って、
予想外の相手の行動を機械的に非難する人は、

同型的だと思います。

「私の考えは正しい」と言わないまでも、
そう心に誓っている人は、
そのことを「信念」だと勘違いしている場合が多いのかもしれません。

「ここは譲れない」「これを譲ったら自分が自分でなくなる」
とか、そういう美談を添えて自己を正当化しているのかもしれません。
そうなると、・・・大変ですね。

そうなるのは嫌なので、
ぼくは人に接する時は、
「その人像」をあんまり固定しないようにするように務めています。
ゆるい理論化というか。

ぼくの好きな漫画に山崎紗也夏さんの『シマシマというものがありますが、
その中である登場人物が次のようなことを言っていました。

       「人に期待するから落ち込むんです。
        期待するのはこっちのエゴなんです。」

なるほどな〜と。
人に全く期待しないというのもちょっと寂しい気がしますが、
これも人に対する理論化を慎んでいる姿勢、
ゆるい理論化に留めていると言えます。

そうすると、
いろんな面を受け入れられそうな気もするし、
「そんな人だとは思わなかった!」という言葉が
出てくる場面はなくなってくるんじゃないかと思います。

もちろん、自分にとって嫌な面までも、
「なるほど。こんな面もあるんだな〜。」といって、
寛容に受け入れられませんが、
極端に嫌な面以外は、
受け入れる器ができるのではないかと思います。

人間関係で使う理論というのは、
虚像と言うのは言い過ぎかもしれませんが、
自分が勝手に抱いたイメージです。

それを、常に更新されるものだという前提にしていれば、
意固地にこだわることもなくなると思います。

話をしていて心地良い人というのは、
「あなたはこういう人だから、あなたはこういう性格だから、
これこれをした方が良い。」
と一方的に言ってくる人ではないと思っています。

ぼくたちは日常的に理論を使っているし作っている。
そして、それにこだわると、現実を歪んで見ることになってしまう。

今回はそんな話でした。
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         『シマシマ
          山崎紗也夏さん)

       人生・添い寝屋・人間関係。
       いろんなことを学びます。
        週刊モーニング連載中♩

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