#172 それってあり得ない?―社交ダンス/タブー/M.ダグラス

CIMG5055.JPGのサムネール画像
《ニラ玉とタマネギベーコンのパスタ。我ながらうまくできました♩》

どういう態度を取ってよいか分からないもの。
どういう態度を取ってよいか分からないもの。
白なのか黒なのか、どっちか分からないもの。

こういうものに接した時、不安や気持ち悪さといった、
後ろ向きの感情が芽生えてくることが多いと思います。
こういう風景は日常にあると思います。

例えば、道を歩いていて、隣の人が急に踊り始めたとしたら、
「えっ?!何この人?危ないから離れよう。」
となるんじゃないでしょうか。

状況にもよりますが、
「えっ?!何だ何だ?おもしろい!」
となる人は少数なんだと思います。

こうやって、
自分の受容キャパシティを越えた現象に出合う時、
たいていの場合、回避したいという気持ちが
反射的にわいてくるのだと思います。自分の経験上。

未知なるものに対する人間の防衛反応とも言えそうですが、
こういうことを、人類学の分野で言った人がいます。

メアリー・ダグラスというイギリスの人類学者です。

彼女は、
その場にふさわしくないもの、
あるべき場所にないもの
matters out of place
メアリー・ダグラス.jpg

は、忌避すべき対象になりやすい、
つまり、タブーになりやすい、
ということを言いました。

場違いだと感じられるものは、
「気持ち悪い」とか、「あり得ない」といった、
ネガティヴな感情を持って見られてしまうのです。

ある二つの領域があって、
そのどちらにも当てはまりそうなんだけど、
どちらにも当てはまりそうにない存在。

ぼくは、こういうあいまいな存在にとても興味があります。
そして、それらに対する人間の対応に対してとても興味があります。
白か黒かはっきりと区別され終わった後のものには、
それほど興味がありません。

「おれは黒で行く!」と言って、
黒であるための条件に自分をはめ込みながら、
「純粋な」黒になるために突き進む人よりも、

「おれは黒なのか?白なのか?」と常に自問して、
その度に暫定的に「こういう面では黒だな。こういう面では白かな。」
とかなんとか言って、
自分の立ち位置の曖昧さを曖昧なままに見つめようとする人の方が、
ぼくは好きです。


フリーランスという存在は、
プロとアマという二つの領域にまたがる存在だと思われています。

(ぼくはそうは思いませんが。プロの一形態だと思っています。
誰が見てもこの条件を満たさないとプロとは言えない。
というラインも確かにあると思いますが、
プロのあり方をどうとらえるか、どういうプロでいたいのか、
というのは人それぞれ、その人の固有性に委ねても良いと思っています。

   「えっ?プロなの?アマなの?どっちなの?」
   プロよりは劣るけどアマよりは(ちょっと)上。

そういう認識をされているのが、
フリーランスの社交ダンスの先生じゃないかと思います。

特に専属サイドの先生方には、すこぶる評判が悪い。
あんなのをプロと呼べない。
そういう認識が主流だと思います。

フリーランスという存在は、
確かにプロとアマの領域をまたぐ「どっちつかず」の存在かもしれません。
ある面から見れば、そういう言い方が成り立つような気もします
(この理由については別の機会に)。

しかし、

プロとアマの間に線を引いたのは誰なんでしょうか?
その線引きにどれほどの正当性があるのでしょうか?

この辺は一考の価値がある部分だと思います。

ぼくは、そんな線引きは
しょせん人が自分の都合の良いように考えた部分が
半分くらいあると思っているので、それほど大切に思っていません。

むしろ、
その作られた部分を盲目的に信じるという行為に興味があります。

どういう根拠でその線引きや、
「どっちつかず」への差別のようなものが生起してくるのか、
そういう部分に興味があります。

これは、社交ダンスに限らず、
いろいろな面で考えられそうなテーマだと思います。

ハーフやクォーターの人が、
いぶかしみの目で見られていた時代もあれば、
今のように、ステータスとしてもてはやされる時代もある。

従来の分類に当てはまらない存在(境界線上の存在)に対して、
人はまず最初に「なんだあれ?あり得ない!」
という否定的な反応を示す。

でも、
その後の変化によって、
「すばらしい!自分もああなりたい!」とかいった
肯定的な反応に変わる(もしくは何も変わらないか)。

そして、
支持者が多くなるにつれて、
「輪郭がなくて、どっちつかずで、あいまい」だった不定形のものが、
「○○族」とか「○○系」とかいった名前を付けられて、
一つの固定化されたジャンルに押し込められる。

そして、
そこからはみ出すものが出て来て、
また「なんだあれ?あり得ない!」と言って排除的な対応をして、
また認められたりして・・・

 

社会は、こういうことの繰り返しでできているような気がします。


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コメント(4)

僕は基本てきにマイノリティな考え方。
大多数が黒といえば白を選びたくなる。
ライクへそまがり?かも。
今は沢尻と相撲界を擁護したい!!

お久しぶりです。renoaです。
プロとフリーランスとアマの違い。難しいですね~。
どんな世界にもありそうでなさそうな関係。
私は「プロは一定水準の技術力(これは資格を取っているとか・指導者に現在育ててもらっていることが前提となります)があり、尚且つその世界である程度の責任や役割を担っている・または担う予定の人々のこと。アマは、そのプロ達が汗水たらして見えない時間や場所で構築した枠組みで、楽しくやりたい事だけ行う人々」と考えています。
ダンスの技量だけで線引きする、という考えではないです。
フリーランスが実際どの地点に属するのか全く分らないので、何ともコメント仕様がありません。すみません。
もしもフリーランスの立場の方々すべてがプロが作った枠組みを利用して、メリットだけ享受しているのであればそれは疎まれるかも知れませんよね。
逆にフリーランスだからこそ、アイディアを提案したり・プロでは補えない部分を補ったりすれば、いつか必要な立場であると認識されると思います。
時間かかりそうですが。
でも、プロから見ていつまでも「美味しい所だけ取っているな」と思われる部分があるならば、フリーランスの立場の方全員でそれ相応の責任や役割を果たさないと永遠に認められない可能性があると思います。でもその全員で・・・っていうのが難しいのかも知れませんよね。・・・的外れな意見かも知れませんが。
いのうえさんは色々考えていらっしゃるので、大変かと思いますがアプローチ頑張ってください!!何より自分自身が幸せを感じることが大事ですよ。

ここからは、いのうえさんとちょっと違う意見になるかも知れません。
renoaは武術を習っています。若くして先生と呼ばれる立場の方々も、上を目指して常に試合や試験を受けています。試合や試験を受けている若い先生はやはり動きが違いますし、先生自身も心身ともに向上している事が生徒目線でも分ります。renoa的な線引きで試合も試験も受けなくて良い先生は、(若い頃から訓練して)30代後半の方でないと何だか不信感を抱いてしまいます。生徒を教えてはいるけど、自分は向上するつもりないのかな~??なんて。
でも楽しみだけで習うのであれば、その「楽しみ」の部分を満足させてくれる「教えのプロ」も必要だと思います。
意外と「楽しみを満足させてくれるプロ」って少ないのかも知れません。

晩酌しながらの投稿なので支離滅裂ですが、いのうえさんが考える幸せに向かってがんばってください。人それぞれです!

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