今日は65年前に戦争が終わった日。
自分が生まれるずっと前の話です。
あらゆる機関が戦意昂揚を至高目的に、
国民が戦争にのめっていく空気を作り出していたようです。
いつもこの季節が来るたびに思うことがあります。
それは、戦争を知らない1人の大人として、
過去の戦争をどうとらえれば良いのか、ということです。
どのように考え、対外的にどのような態度をとれば良いのか、
ということです。未だによく分かっていません。
戦争は悲惨である。だから、二度と起こしてはいけない。
というものくらいでしょうか。
ひとまず、
これをこれ以上さかのぼることのない思考の前提にして、
その後の発想を展開していきたいと思います。
こういうプログラムがありました。
祖国のため、家族を守るため、という目的意識のもと、
陸軍に志願した15歳の少年と、志願したが検査で落とされた少年。
親友同士のこの2人が、出征を機に袂を分かつ筋立てでした。
学校の集会で、壇上に立ち、他の志願兵とともに、堂々と意気込みを語る友人。
志願しながらも出兵しない自分。
友人に対する後ろめたさから、彼を直視できない自分。
楽団が演奏する派手な楽曲の中、
日の丸で埋まった沿道をみんなに見送られて出兵していく友人。
そんな友人を見送りたいが、堂々と対面できない自分。
文脈は違えど、主人公の少年には共感するところがありました。
それは、
自分の所属する集団(この場合、日本)で美徳とされているストーリーから
はみ出す時に感じる圧力についてです。
その集団で目指されるべきストーリーというのは、
学術用語で「ドミナント・ストーリー」と呼ばれています。
どの世界にも、この「ドミナント・ストーリー」があります。
この志願兵の少年の周囲に流れる「ドミナント・ストーリー」は、
「身体を鍛え、礼節を重んじ、親を敬愛し、国と天皇のための勤労国民となること」です。
さらに言うと、「日本軍に志願し、前線で功績をあげる」ということです。
しかし、
この少年は身体検査で「不適格」の烙印を押されたことにより、
そのストーリーを歩めなかった。
歩もうと思っていたのに、歩めなかった。
周囲は、
「戦地に行きたくないから、わざと(視力検査で)見えないふりをしているんだろう!」と責め、
自分も出兵していく友人に申し訳ないと思い、
以前のように堂々と接することができなくなる。
そうやって、
「ドミナント・ストーリー」からの逸脱を周囲も自分も糾弾するようになっていく。
こういう構図は、いたるところで確認することができると思います。
ぼくはこういう分野にとても興味があります。
社会的に期待される行動、社会的に美徳とされる生き方。
自身の所属する集団に通底するストーリーが、
どのように個人を縛り、そこからはみ出すことがどのような意味を持つのか。
そんなことに興味があります。
その世界に流通するサクセスストーリーがどのように出来上がってきたのか。
ぼくはそれについて、
社交ダンス界というフィールドで研究したいと思っています。
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