昨日、滝川で競技会がありました。
出場したのは、プロC級スタンダード部門。
ワルツ、タンゴ、フォックストロット、クイックステップの4種目総合戦。
決して広くはない会場には、予想以上に大勢の観客がつめかけ、
フロアは終始、熱気に包まれていました。
16時過ぎに始まった1次予選から、2次予選、準決勝と進みましたが、
決勝には2ポイント足りずに敗退。
全身に気合をみなぎらせ、内部に攻める意欲を燃えたぎらせて挑んだけど、
ファイナルの6組に食い込むことが出来なかった。
各ラウンドで声を張り上げ、手を叩いて応援してくれたみなさんに対して申し訳ない気持ち。
「観客のみなさん!自分の贔屓にしている選手は、
〇〇番ですよー!〇〇番の□□という選手なんですよー!
良い踊りをするから、みなさんぜひ応援してあげて下さいねー!」
というメッセージと、
「審査員のみなさん!〇〇番の選手は、
こんなにも良い踊りをしていますよー!
それにこんなにも熱烈に応援してくれる人達に囲まれている選手なんですよー!
だから、次のラウンドに残れるように、点数を入れてあげてくださいねー!
今日の競技会を盛り上げるためにも、今後のダンス界を盛り上げるためにも、
次のラウンドに残れるように、点数を入れてあげてくださいねー!」
というメッセージ。
こういった情報を、応援することによって、
応援の対象である選手に利するように周囲に発信する。
応援してくれたみなさんは、意識するしないにかかわらず、
この方法で、状況が選手である自分に有利に働くように
仕向けてくれたんだと思います。
だからこそ、期待に報えないのは申し訳ないことだと思う。
プロならそう思って当たり前。
そして、原因を解明し、改善策を考案し、それを実践し、そして、また挑む。
このサイクルを呼吸をするように、当たり前に実践する。
それがプロ選手としての基本の所作。
「自分の先生の期待(自分が所属する教室の先生や指導を受けている先生)」
と
「生徒さんの期待(自分を頼って教室に通ってくれる人、
他の教室の生徒だが競技会では必ず声をかけてくれる人、
久し振りに見に来てくれた友人・・・)」。
前者は、
「指導した部分がしっかり修正されていてほしい。
他の選手や状況に臆さずに闘う踊りをしてほしい。
決勝に残ってほしい。」
という期待。
後者は、
「勝ってほしい。勝って何回も踊る姿を見せてほしい。
決勝に残ってほしい。」
という期待。
この2つの期待が選手としての自分の双肩に乗っかっている。
プロC級のラテンアメリカン部門に出場した選手が、
決勝ラウンドが終わった後に、指導を受けている先生から、
「何やってんだ!あのサンバは何だ!最初しか(音に)合ってないじゃないか!」
という指摘を受けていました。
それを聞き、パートナーの女性が泣きそうになっていました。
というか泣いていた。
男性も「はい!はい!すみませんでした!」と、
高校の運動部のようなノリの受け答えをしていた。
その様子をちらちらと目の端で見ていた自分は、
「厳しいな。」と思いながらも、
「でもプロだったら当たり前だな。」と、その状況を肯定した。
「楽しんで踊る」、という言葉をよく聞くし自分でも使っている。
アマチュアなら許される。
ステップを間違っても、決勝に残れなくても、結局は「出来なかったなー。ははは。」
で終わっても良い。「悔しかったー。」と何となく悔しがった振りをしても良いし。
自分の踊りの結果をどう解釈しても良い。
なぜなら、両肩にかかるものがプロよりも軽いから。
「先生からの期待」も、「出来たら良いよね。決勝に残れれば良いよね。」的な
とてもユルいものになるし、
他の「生徒さんからの期待」も同様のユルいものになる。
しかし、プロなら「楽しんで踊る」という次元で物事を考えるのではなく、
いかに音の強弱をはっきりさせるか、
いかに審査員から点数をもらうか、
いかにお客さんを楽しませられるか、
そういった具体的なことへの努力を優先させるべきだと思う。
そういった、表現者としての緻密さを徹底させていったところに、
表現者が自覚する「楽しみ」があるはずだし、あるべきだと思う。
プロなら、まずはやるべきことをやり、その後に自分だけの喜びにふければ良いということ。
月並みな言い回しだけど。
逆に言うと、そこに楽しみを見出せない人は
ダンスのプロの選手には向いていないということになる。
少なくとも長続きはしない。
このことについて、常に自分に問いかけています。
今、自分はたまたまダンスという表現手段の世界にいるけど、
ダンスに限らず他の表現手段にも当てはまる考え方だと思います。
例えば、文章、詩、映像、音声、楽曲、料理、書、絵画、製造業、農業・・・
その手段を使って表現をするという選択をした以上、
いつかは、「自分だけのために」という次元から、
「伝えたい誰かのために」という次元へ脱皮する必要があるんじゃないか。
なぜなら、表現は自分1人では成立しないから。
発信者がいて受信者がいる。
少なくとも2人分の感性が無ければ、表現は存在しないことと同じだから。
だから、何を表現手段に採用するにしても、
「どうしたら、自分の言いたい事が正確に伝わるだろうか。」や、
「どういう工夫をすれば、情報の受け手は喜んでくれるのだろうか。」
について腐心すること自体に、
自分が楽しみを感じ、喜びを感じることが出来なければ、
その世界には自分は縁が無かったということになる。
「先生の期待」と「生徒さんの期待」。
この2つを双肩にかかる期待を、プレッシャー、荷物と規定してしまうのではなく、
グッドなパフォーマンスをする上でのエネルギー源だと思うことが、生産的な思考だと思う。
双肩にかかる重圧を創作のエネルギーに変換するのは、
プロ表現者としての覚悟でしかない。
モラルの問題からというよりも、
合理的な結論としてそう考えた方が、理に適っているし、得だということ。
楽しむことは良いことだけど、
どの部分で楽しむのが表現者としてあらまほしき態度なのかについて書いた話でした。
今日はこの辺でzzz
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