今日はパーティーです。
3教室合同で主催する恒例のサマーパーティー。
ホテルの大広間を借り切って、
120人くらいのお客さんがやって来ます。
計2時間くらいのダンスタイム、
生徒さんとのミニデモンストレーション、
自分達のプロデモンストレーション、
そしてフィナーレ。
見てくれた人みんなに楽しんでもらうために、いろんな所に気を配る。
招く側の喜び、主催する側の楽しさを存分に味わいたいと思います。
今、自分がこの文章の試みでやろうとしていること。
目的。
それを定期的に確認しておきたいと思います。
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人間は、どういう仕方で物事を考えているのか。
目の前の現象には、どういう意味が隠されているのか。
なぜ、ここにはこういう社会があって、
あっちにはああゆう社会があるのか。
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そういうことを知りたい。
そういうことを、自分の感覚を通して考えたい。
そういうことに対して、自分なりの答えを見つけたい。
そう思っています。
ひとまず一番身近にある素材は、自分の感覚。
自分の感覚を通して得た、
「ん?」という所感を出発点に思考をスタートしていきたいと思います。
目的は、「考えること」ではなく、「答えを見つけること」。
でも、
その「答え」を見つけることができたとしても、
「〇〇ということだ!」といった断定調で示せるものは少ないと思います。
むしろ、
「〇〇という場合もあるだろうし、△△という場合もあるだろうなー。
今はこっちかなー。」
といった、はっきりしない場合がほとんどだと。
頼りない。
確かに頼りないけど、それでも良いと思います。
人間は、状況、条件の中で揺れ動く頼りない存在だと思っています。
人間は、"その時の状況"とか"気分"とか"めぐり合わせ"に、
大きくその行動を左右される存在だと。
ゲーム理論や効用関数を駆使する経済学が、
人間の行動を未だに定式化できないでいるのは、
その証拠なのではないでしょうか。
「したいような気もするけど、したくないような気もする」
「行きたいような気もするけど、行きたくないような気もする」
そんな"どっちつかずな"態度、優柔不断な態度が、
人間の本性だと思っています。
そこに、
刺激的なメッセージや決定に対する内外からの圧力が加わった時に、
いずれかの選択肢への決定が為されるんだと思います。
「あなたの欲しいものはこれなんでしょ?私達はそれを提供できますよ。」
といった宣伝や、
「"男"なら、こっちの道に決断するのが常道だ。」
といった特定の価値観。イデオロギー。
これらの要因に押し出される形で、
いずれかの立場をとるようになっていく。
"どっちつかず"でいられなくなる。
ちなみに、トピックによっては、
決断しなくてはならない時が来るかもしれない。
それまで保留にしていた決断を迫られる時が。
例えば、
進路とか結婚とか出産とかといった、
ライフステージに関するトピック。
反対に、
決断しなくても生きていけるトピックもあるかもしれない。
それに対する態度を決めなくても、
何の問題もないトピック。
例えば、
日本の政治とか
(自分の生活に直結するはずなのに、日本ではそういう意識が低いらしい)、
世界の貧困とか
(日本に暮らしていると世界の貧困に無関心でも死ぬまで生きていけるかもしれない)。
いずれにしても、
何かの立場をとらなければならなくなった時、
何かを決断しなければならなくなった時、
"どうしようかな~"
と言って迷ってきた経緯をいつまでも覚えているようにしたいと思っています。
ある立場をとることによって、
こぼれ落ちるものをいつまでも覚えておきたいと思っています。
ある問題に対して、
例えば、いじめの問題とかに対して、
「いじめはだめ!だめなものはだめ!いじめるやつがおかしいんだ!」
という態度に最終的に至ったとしても、
ここにたどり着くまでに経由してきた思考、例えば、
「あの人はこの人をいじめてるっぽいなー。
でも、そもそもいじめって何なんだろう?
外から見て判別できるいじめだけじゃなくて、
見えにくいいじめだってあるよなー。
いじめている人も、実は誰かにいじめられていて
その人の圧力でいじめさせられている場合だってありそうだしなー。
もしかしたら、いじめにもいろんなタイプがあって、階層もあって、
一言では説明できないのかもしれないなー。・・・」
等々。
こういった自問と自答の過程を覚えておく。
そうすると、何か1つの立場で論陣を張るにしても、
対応する引出しが増える気がします。
「あーでもない、こーでもない」と、
あれこれ思索することが、
ある立場をとる時に強力なサポート役になってくれる。
例え、いろいろな可能性を考えないで、
最初から「これだ!」と決めたとしても、
「なぜこれにしたんだろうか?」とか、
「これに決めたということは、
これに共通する他のものにも心惹かれる可能性もあるんじゃないんだろうか?」
とかを考えられるようになれれば、
自分の拠って立つ基盤を重層的に描写することができる。
幸い、
自分はいじめに荷担してこなかったし(たぶん)、
いじめられたという経験もありません(たぶん)。
でも、
こんな思考は、現場の人に嫌われそうですね。
実際、教育現場にいたり、日々、いじめに関わっている人には。
今すぐにも助けてほしい人の前で、
「ん~、そもそもこの状況は何だろうか?」
なんて悠長なことを言って、観察して、本質をじっくり思索する人は、
おそらく人間の世界の住人ではない。
「助けるためにはどうすれば良い?!」
と、ひとまず目の前の状況を解決する技術的な対策を見つけようとするのが、
良いことなんでしょう。自分もそうしたいと思います。
ここにも、思考の型を見つけました。
2つあるみたい。
本質論と技術論。
目の前にある状況の緊急性によって、
2つの思考の型を使い分けるという戦略が良さそうです。
明日からは、
社交ダンスの世界で、
自分に飛び込んできた疑問点や関心した点なんかをタイトルにして、
それに対して、「思考の型」という道具を使いながら、
自分がどう考えるのか、
どう考えたいのかを展開していければと思います。
例えば、
「なぜ、社交ダンス教室の名前にはカタカナが多いのか?」
とか、
「なぜ、社交ダンス教師という職業が成り立つのか?」
とか。
おもしろそう。そうしよう。
今日はこの辺でzzz
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