#61 なぜ、"パーティー"という言葉を聞くとテンションが上がるのか?

パーティーは無事に終了。
 
ダンスタイム、生徒さんとのデモンストレーション、自分達の出番、

それぞれに対して、あらかじめ想定していたレベルをクリアできたかなと思いました。


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 それにしても、なぜ"パーティー"と聞くとテンションが上がってくるんだろうか?
 
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不思議です。 

この仕事を始めてからは、
パーティーには、
ゲストではなくホストとして関わっています。

だから、

ここで言う「テンションが上がる」というのは、
「よし、やるぞ!」とか、「頑張って楽しませよう!」とかに類するものです。

「飲んで食べて踊って楽しもう!」という意気込みとは違う種類のもの。
 

当たり前の事ですが、パーティーは、

ゲストにとっては、「開くものではなくて、参加するもの」 
ホストにとっては、「参加するものではなくて、開くもの」

 
この2つの立場の人間によって構成されているようです。

ゲストは、教室に来てくれる生徒さんやその友達。
ホストは、教室のオーナーやスタッフ、会場のホテルの従業員、カメラマン等。 

 
同じイベントに関わるにしても、
どういう立場で関わるかによって、
見るべき景色や考えるべき角度が、全然違ってくるということなんでしょう。
  
 
楽しんでもらうために、
いくつかの企画を用意して、それに向けた準備をする。
 
ゲストの動線をトレースして、
「何がこの場所にあった方が良いか、無い方が良いか。」を吟味する。

どのタイミングでどの料理を出して、どんなドリンクを用意しておくか。 
空調はどの程度に設定するか。
曲の音量はどの程度が適当か。
照明はどのぐらいか。 


そんなことを考える必要があります。

だから、「よし!やるぞ!」という気持ちになってくるんでしょう。

 
もう少し進めたいと思います。

この問いをもう少し一般化して言い換えると、


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 なぜ、単なる記号である"パーティー"という言葉に反応して、
 反射的に"ホストとしての意欲"が湧いてくるんだろうか?
 
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こう言い換えてみる。
もっと言い換えてみる。 

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 なぜ、単なる記号が、ある特定の意思を持つに至らしめるのか?

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"パーティー"というのは、ただの単語です。
 
それなのに、
それを耳にするだけで、
「あれとこれに注意しよう」といった具体的な行動の指針が想起される。


不思議です。

 
"パーティー"という言葉に限らず、
他の言葉にも似たところがありそうです。
 

ある言葉を聞いた瞬間に、
自分の記憶にある、その言葉にまつわるエピソードが掘り起こされる。
連想される。

言葉をタグにして、記憶を引っ張り出すという感覚。
 
言葉に限らず、音楽や数字や声や状況など、
何かをスイッチにして記憶が検索されるという仕組みのようです。


ぼくは、よくいろんなことを思い出します。

小さい頃の風景や、出来事、その時の感情や周りにいた人の言葉など。
何の脈絡も無くフッと思い出すことが良くあります。


      小学生の時、岩場の奥に潜んでいるカニを引っ張り出すために、
      自分の手を突っ込んで、
      自分の手を餌にしてハサミに挟ませて釣り出したこととか。 
 
      晴れていたのに急に曇ってきて雨が降り出す時の、
      サーッと空気が入れ替わるような感じとか。
 
      和久井映見と吹越満が出ていたドラマで、
      ミスチルの『終わりなき旅』が流れているシーンとか
      (マニアックだな・・・)。
 
      お酒を飲んだ後にラーメン屋をはしごした時の、
      おいしいんだけど満腹で、満腹だけどおいしいようなあの感覚とか。
 

何の脈絡もきっかけもなく思い出しているように見えても、
実は何かのスイッチが入っているのかもしれません。
だから思い出したのかもしれません。

 
逆に言うと、

その仕組みを利用して、
その"スイッチ"を意識的に作ってしまえば良い。
 

例えば、

     「歯を磨く時には、特定のスペイン語を5つ思い出すことにする」とか。
 
"スペイン語を思い出す"ために、
"歯を磨く"というスイッチを意図的に設定する。
 
そんな感じで。
 
そうやって習慣化すれば、
すぐに思い出すことができて結果的に"覚えられる"と思います。
理論上は。 

 
その時々に、誰かが周りにいてくれて、
何かの言葉をくれて、
自分は何かについて悩んでいて、何かに取り組んでいて、
何かを大事に考えていて、何かに興味を持っていて・・・
 

自分にとって、
その時の周囲の状況、感情、心の持ち様、自分の置かれた状況など、
それら抜きには思い出せません。

その意味で、
それぞれの曲や食べ物、イベントは、自分に固有のものとなったということ。

そう言えると思います。


  ハサミの痛さを想起させないカニは、自分の世界には存在しない。
  涼しさと切り離された雨は、自分の世界には無い。
  和久井映見と吹越満を思い出させない『終わりなき旅』は無い。
  満腹感と関係のない飲み会後のラーメン屋はしごは無い。
  大山のぶ代の声じゃないドラえもんは、自分の中にはいない。
 (今の声の人が嫌とかじゃなくて、ドラえもんとの最初の出合いが
  大山のぶ代だったから、自動的にその声を想起して、比較してしまうということ。)
  社交ダンスの無い20代は自分の人生には存在しない。 
  札幌という街のない北海道は、自分の中には存在しない。  

  
例えば、

この札幌という街、北海道という地域、日本という国。

名前は1つだけど、人間の数だけ、
札幌があるということ、北海道があるということ、日本があるということ。


そうなっているようです。


  自分にとっての日本は1つだけ。
  本来は誰とも共有できるわけがないもの。
 
それでも共有できるのは、共有できると思い込めるのは、
自分にとって固有ではない部分でだけ可能だからなんじゃないでしょうか。
 
 
ぼくが思い出すことが多いのは、
自分に固有の世界が、
みんなが共有していて誰のものでも無さそうな世界に埋もれてしまうことへの、
ささやかな抵抗なのかもしれません。


"パーティー"というスイッチを入れることで、
それにまつわる自分に固有の記憶を掘り起こし、
具体的な行動に移していったり、ただ、思い出すだけに留めたり。

記号(言葉・数字・イベント・曲・食べ物・・・)と、
記憶蘇生の関係はこんな感じなんでしょう。


では、なぜこんな関係が成り立んでしょう?

上の問いに答えるためには、
そういう所に切り込んでいかないといけないようです。
 

自分で設定したくせに、"なぜ~"という問いに全然答えられていません。

答えようとするには、
何かの概念を持ち出してきたり

(例えば、外的な刺激を"記憶蘇生のスイッチ"に変換するメカニズムが
人間の身体の中に存在すると仮定したり。)

が必要なんでしょう。

もっと時間がかかりそうです。

 今回はこの辺でzzz

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