昨日に引き続き、札幌の空は荒れています。
風がびゅうびゅう。
雨がばらばら。
窓をたたく雨粒越しに見える窓外の景色が、ぶよぶよと水の膜に揺れている。
木々の緑や水色の空。
色鮮やかな夏の風景を一掃するような空模様。
夏が終わって秋が来て。
季節が移り変わる瞬間を見ているようです。
今回からは"けんか"について。
2回に分けて何かを考えたいと思います。
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"けんか"は手段。
ダンスが上達するための。
お互いの踊りたい方向性。
強調したいタイミング。
表現したいフィーリング。
描きたい練習計画。
そういう諸々について、お互いの意見をすり合わせる上での"けんか"。
「自分はこうしたい。」
「いやいや、私はこうしたい。」とか。
「この前、2人で確認したところをきちんとやってない。」
「いや、やっている。」とか。
練習中にパートナーとけんかをする。
そんなことは日常の風景すぎて、誰も気にも留めない。
誰も疑問に思わない。
けんかして当たり前。
けんかすることでお互いの理解が深まる。
けんかすることでお互いの絆が深まり、効率の良い練習につながる。
そんな理解。
むしろ真剣に練習に取り組む証として、奨励される向きすらある。
社交ダンス界における、パートナーとの"けんか"は、そういう位置付けになっているようだ。
「けんかするぐらいお互いの本音をぶつけあって、向上していきなさい。」
そういう価値観が、社交ダンス(特に競技ダンス)の世界に浸透している。
この世界では、
けんか = 本音を言う = 建設的なより深い関係へ
こういう図式が浸透しているらしい。
"けんか"はコミュニケーション促進の起爆剤。
そう信じられている。
確かに、本音を伝えるということは、遠慮しあう関係に風穴を開けて、さらなる創造のためのスプリングボードになると思う。
でも。
なんか嫌だ。
だからといって、なんで"けんか"しないといけないんだ。
そう思う。
そう思ってしまうんだから仕方がない。
創造のきっかけになるからといって"けんか"しなくても良いと思う。
"けんか"なんてしなくても、本音は伝え合えると思っている。
テクニックは要るだろうけど、けんかをする必要はないと思っている。
自分は"けんか"なんてしたくないと思っている。
何で"けんか"したくないか。
それは無駄なことが多いから。
得なことが少なくて、損なことが多いから。
暴言を吐かれてまで、冷静に思考して対応できるほど、自分は聖人君子でもないし、暴言を吐いてまで「これはあなたのため。自分達のため。目的のため。」と居直れるほど、神経は太くない。
「創造的なけんか」みたいなものがあるとしても、できればしたくないと思う。
深い関係になりたい相手、長く付き合いたい相手であればあるほど、"けんか"はしたくないと思っている。
自分は感情をあまり出さずに、相手に対してマイペースに接する方が良いことだと思っている。自分の場合、感情というか気分の起伏が激しい方だと思っているので、衝動的な言動で相手を傷付けたくないと思っている。
相手が感情を出してきた時、その受け皿になるような存在でいたいと思う。
「あぁ、この人は、こういう経路を通ってきて、こういう理由で嬉しがってるんだなー。悲しんでいるんだなー。怒っているんだなー。」
と。
そういう態度で応えたいと思っている。
これは、「自分の中にある感情というマグマを"抑え込む"」というのとも違う。
人間は感情の生き物だから、抑え込むなんて出来るわけがない。
抑え込んだら、きっと病んでくると思うし。
ただ、それの表への出し方の問題だと思う。
マグマは絶えず運動して、小出しに、時には一気に、常に表に出ることをうかがっている。
それが人に向くか、自分に向くか、それ以外の対象に向くかの違い。
そして、どれぐらいの分量が出るかの違い。
感情の出し方の問題。
何に価値を置くか、という矜持の問題でもある。
不和を生んでまで主張したいことなんて、そんなにたくさんないと思う。
人にもよるけど、片手で数えられるぐらいなんじゃないだろうか。
なぜ、自分がこういう態度をとるに至ったか。
次回は、自分の経験に即して、このことについて進めていきたいと思います。
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