#76 社交ダンスと"ネイティヴの人類学"2

 
札幌は久し振りに快晴。

この季節にふさわしい気候に朝から嬉しくなる。

からりとしてて、風が凪いで。

薄青の空と白の雲。

緑の木々に灰色のアスファルト、オレンジのテレビ塔に赤色の自転車。

それぞれが夏の札幌を演出する。

 

それなのに・・・


昨日は、昼からずっと気分が悪かった。

吐き気がするというか、気持ちが悪いというか。

身体に合わない食べ物を食べて、

身体が拒否反応をしているような感覚。

 

この感覚を言葉にするのは難しい。

 

誰にとっても、

自分の感覚を的確に言葉に表すのは、

とても難しいことのはず。

 

言葉とはそういうものかもしれない。

 

感覚や感情をぴったりと表すことは無理なのかもしれない。

 

というか無理だと思う。

感覚や感情は言葉に言い尽くせない。

今の感覚や感情を11で表すことが出来る手段は無いんだろう。きっと。


 だから、何回も言い直す。

 だから、"~みたいな"とか、"~的な"とか、"~っぽい"とかいった言葉が使われる。

 だって、ぴったり当てはまる表現が無いんだから。

 自分に出来る事は、今の感覚や感情の周辺を表す"既にある言葉"を"仕方なく"組み合わせて当てはめるだけ。

 人間の感覚や感情が複雑だからというよりも、それらを表現する手段としての言葉が不完全だということだと思う。"~みたいな"とか"~的な"という表現は、会話の中でこれからも使われ続けていくはずだ。

 

 何かの現象を目の当たりにして、自分の感性に飛び込んでくる何かを表現する適当な言葉が思い当たらなくて、"う~ん"と言いよどむ人。

 そのものは言い表せなくても、それに近い表現を探しながら、たどたどしく言葉を紡いでいく人。

 自分はそういう人が好きだし、そういう人になりたいと思う。

 寛容な態度で、相手が言葉を見つけるのを見守っていたいし、時には自分からも提案したい。逆に、自分もしっくりくる言葉を見つけるまでは、待ってほしいし、提案もしてほしい。


 ズシンとした印象が残る映画を観た後に、その時の所感を、世の中にあふれるレディ・メイドの表現、例えば、「良かった。感動した。」だけに終わらせたくないと思う。 

 もっとたくさんのことを感じたはず。それを、出来合いの表現に回収して、"表現した"、"言葉に表した"ということにしたくないと思う(めんどくさいけど・・・)。

 


 これは、クイックレスポンスを"善いこと"と考える、例えば、就職活動の面接とか(したことないけど)、仕事上の受け答えには相容れない考え方だと思う。

 

 何でもかんでも、「人間は明確に答えられるはずだ」と思っている人とは、自分はきっと言葉が通じない。

 うまく答えられないことに対して、「はっきり言えや~!」とすぐにいらいらし始める人とは言葉が通じない。

 「明確に答えられないということは、君の能力不足だ」とかいう人とは言葉が通じない。

 自分の頭にある考えを、一滴も漏らさず言葉にしてアウトプットできると信じている人とは、きっと言葉が通じない。

 

 感覚や感情は、言葉には言い尽くせない。

 だから、言葉に詰まるという事も起きてくるし、言い直しも出てくる。

 でも、そのたびに、本人にとって周囲にとって"しっくりくる"表現が醸成されてくる。

 それが良いんだと思う。

 それで良いと思う。


 面接とか仕事上の受け答えの場面なんかでクイックレスポンスをしないといけない場面に遭遇した時には、その時は仕方ないと思って、フィクションだと思って、一種のゲームだと思って参加するしかない。

 感覚と言葉をつなぐ回路を丁寧に探索する自分を、いったん横において、「〇と来たら△!」「Aと来ればB!」というふうに、体育会系のノリで、思考を凍結して脳内の筋肉だけで反応する自分にスイッチを切り替えるしかない。

 


 前回は、自分が"社交ダンス"という世界で、


 「何が常識になっているのか?」

 「この世界に生きる人達に目指されている、人気ある物語は何か?」

 「この世界で生きる(仕事をする)とはどういうことか?」


 といった思考の試みをしているということを書いた。

 そして、それに"ネイティヴの人類学"という名前を付けても良さそうだということも書いた。これについて考える時、自分の感覚に近そうな言葉を、丁寧に発掘していきたい。


 ひとまず、自分はこの試みを、誰に読んでほしいんだろうか?

 それを気にしておく必要がある。


 それは、社交ダンスを職業に選び、教師として日々の営業で闘い、同時に選手としてパートナーと自己研鑽し、勝つための努力を続ける、トッププロ以外の人々。多くは、20代~30代の男女。自分と同年代の人。

 また、社交ダンスとは別の世界で、自分の生きる物語を模索している人。

 

 そんな人達に聞いてほしくて書いている。 


 そして、定型への同一化圧力に屈せず、自分だけの物語を語り始めるきっかけとして、自分の話が役に立てれば良いと思っている。


 それを忘れないでこれからも続けていきたい。


 今、自分がやっていることについて、"ネイティヴの人類学"を意識するのであれば、

 「描く人」が誰で、「描かれる人」が誰かをはっきりさせておく必要がある。

 

 「描く人」は自分。

 「描かれる人」は、自分を含めた"社交ダンス"界の教師兼選手。


 自分の属する世界を深くのぞいて、帰ってきて、同じ世界に属する読み手に翻訳して聞いてもらう。「自分達の住む世界は、実はこんな姿だったんですよ。」といった話を。


 ちょっと視点を高くして。

 今、「描く人」である自分も「描かれる人」がいる世界に属しているけど、「描く人」が外にいる場合はどうなんだろうか。

 つまり、この"社交ダンス"という世界は、一般にはどのように描かれてきたんだろうか。そういうことも知っておきたい。

 

 手持ちの知識レベルで整理してみると。

 「描く人」は、日本社会。

 「描かれる人」は、社交ダンス界。


 「描く」というよりも「評価する」と言い換えた方が実際に近いかもしれない。

 

 (評価する側)   (評価される側)

  日本社会   →  社交ダンス界


  一言で言うと、日本の社会の中で、社交ダンスは辺境に追いやられていた。

  

 「あいつらは何をやってるんだ。」

 「社交ダンスなんていかがわしい。」

 といった評価。


 日本の社会に蔓延していた支配的な価値観。

 それがだんだんと変化しつつある。

 それが、戦後、先人達の努力により、文部科学省の認可もとり付け、だんだんと社会の中に位置を定着させるようになってきた。


 薄暗い場末のダンスホールから、街の中心部に構えた、明るく清潔な社交場、自己研鑽のためのレッスン場としてのクラスチェンジ。 

 社交ダンスへの社会的な評価が、だんだんと変化しつつある。


 そんな構図を覚えておく必要があると思う。

 自分の今いる世界を語ろうとするのであれば、自分の今いる世界が自分の外の世界から どのように評価されていて、その評価がどのように変化しているのかを知る必要がある。

 

 人類学というのは、


 (ある文化に属する)人間が、(同じor異なる文化に属する)人間をどのように見るか、描くか、規定するか、評価するかを明らかにする学問のようだ。


 どうもそうらしい。

 

 今回は前段が長くなったので、"ネイティヴの人類学"についてはこれくらい。


 "なかなか断じない"ことに対して、後ろめたさを感じる必要は無い。

 この世界を見るときに感じる所感を表すにふさわしい表現を、丁寧に見つけ出しながら、着実にこの世界を描いていきたいと思う。


 最近だんだんと、長くなりがちなので、もう少し読みやすくてコンパクトにまとめたいと思います。

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