久し振りに小樽へ行った。
2週間ぶりくらいか。
久しぶりにスタンダードを練習した。
力の抜け具合、身体の張り具合を確かめながら、ワルツとタンゴをパーツごとにさらっていく。
教科書的には何が正解で、それに対して自分達はどう変化をつけたいのか。
そんなことを1つ1つのフィガーに対して、確認していく作業が必要になる。
そうやって2人で積み上げていくものだ。社交ダンスは。
1人の先生の誕生日が昨日だったらしく、帰り際にケーキをごちそうになった。
「おめでとうございます。」
そう言おうとして、「ございます」のところを噛んでしまった。
恥ずかしい・・・
電車の時間を気にしながら急いで手をつける。
ホワイトチョコレートでコーティングされた甘いケーキ。
黒塗りのお箸で切り分け、口に運ぶ。
アイスコーヒーで流し込むようにしてお皿を空け、お礼を言ってスタジオを後にした。
外へ出ると、雲のない穏やかな夜空。
明かりを落としたビルの谷間から、白く発色した真ん丸の月が顔をのぞかせている。
小樽発札幌行きの最終電車。
金曜日の夜だけど、今までにない混み具合。
酔客ばっかりだ。
本当にせまいBOX席。
JR北海道に特有?
まさに膝と膝を突き合わせてひしめくように座る中高年の勤め人4人。
すでに飲んできているようで、4人とも上気したような顔をしている。
各々の手にはサッポロクラッシックの350ml缶。
コンビニで買ったばかりなのか、表面に水滴が浮き出ている。
「のざき~のざき~、あいつはほんとにいい!・・・元気があってな~」
などと言って、新人らしき"のざき"と呼ばれる人物について盛り上がっていた。
最初は遠慮がちだった声のボリュームも、時間とともに開放されていく。
アルコールがそれを助長する。
だんだんうるさくなってくる。
知らない人達のグループの会話を聞くのは、とても耳障り。
特に自分が1人の時で、その会話を聞かなければならない状況にある時。
不快になるかどうかは、話し手の声の質にもよるけど、基本的にはだいたい不快になる。
感覚が鋭敏な時は特に、周囲の情報をいちいち拾ってしまうから、読書しても頭を素通りするし、寝ようとしても気にしすぎて夢の扉を開けない。だからこんなことを考える。
i-podが欲しいと思う。少し。
でも。
************************
なぜ、他人の会話は耳障りなんだろうか?
************************
自分達のグループが、公共の場で盛り上がって話をしている時は、今の自分と同じように、周囲の人は苦々しく思っているはずだ。
なぜ、他人の会話は聞きたくないと思うんだろうか。
これは、ケータイの通話に対する時と似ている。
外を歩いていて、特に閉じられた空間(電車内とか会議室とか喫茶店とかスタジオとか)で人がケータイで誰かと話をしている場面に遭遇した時。
不快とまではいかなくても、決して良い気分はしない。
何でだろうか。
それは、その会話に自分が参加していないから。
会話で発せられる言葉が自分に向かってきていないから。
だからだと思う。
自分に対して語られていない言葉を、強制的に聞かなければならないということ。
これは、ある種の拷問だと思う。
自分に全然関係ない言葉を聞かされるということは。
当人同士にしか通じない、「さっきの〇〇は、△△でということで(笑)」といった会話を聞かされる時、同じ空間にいる人は、だいたい無表情になってその場を取り繕うための演技をせざるを得なくなる。
「別に気にしてませんよ。自分は読書に集中してますよ。」とかいった演技を。
目障りなものに対して目をつぶるのと同じで、耳障りなものに対しては耳をふさぐしかない。i-podとか耳栓で。
それが出来なければ、意識の力でBGMに転化させるしかない。
それも無理なら、「ふむふむ、〇〇という人はそういうことをする人なんだな~。」というふうに、心の中で勝手に会話に参加するしかない(これはこれで気持ち悪い・・・)。
この嫌悪感は、「"ケータイマナー"に違反する行為に対する義憤」ゆえではない。
「他のお客様のご迷惑になりますので、車内での携帯電話の通話はご遠慮ください。」とアナウンスされているのに、それを守らないで通話しているから、"けしからん!"といって不快に感じるのではない(自分は、周囲の人が不快でなければ、ケータイの通話なんていくらやっても良いと思っている。そう言えば、以前は"心臓ペースメーカーに支障をきたすから・・・"という理由でケータイマナーの遵守がアナウンスされていたけど、最近はあんまり聞かなくなったような気がする。)。
この不快の源は、「内容が自分に全く関係がなく、なおかつ会話に参加する事が出来ない状況に強制的に置かれている」という所にあると思う。
仲間内で盛り上がる当人達や通話する本人は、自分の声が届き、それに対する応答がある場にいる。
しかし、そこに"招かれざる客"がいる。強制的に聞かされるだけの人がいる。
自分に対して、「今日は良い天気ですね。」とか、「どう思いますか?」といった働きかけがない場。
でも目の前の人は誰かと盛り上がっている。自分はその様子を観覧しないといけない。
「一緒に話そう。」と誘われていないし、参加する方法もないのに、その会話の一部を聞かなければならないという状況。
そんなことを考えていると、4人は札幌の手前、「琴似(ことに)」で降りていった。
他の人がいる中で、密室でケータイで通話をする人。
他の人がいる中で、仲間内で大きな声で盛り上がるグループ。
彼らに対する不快感は、自分とのつながりの不在ゆえのものだと思う。
その不快感は、声の音量が大きければ大きいほど増幅され、ますます自分を非寛容な存在に変えていくのだと思う。
「そこで起きている事を観たり聴いたりすることは出来るけど、自分の行為によってそこに何らかの波紋を生むことが出来ないという状況。」
なぞなぞみたい。それか、何かについての辞書の解説みたい。
4人のサラリーマンと自分の間にあったもの。
それはこういう構造。
一般化するとこういう構造になっていた。
これに似た構造を持つ、現象は他にもありそうな気がする。
社交ダンスの世界にもあるかもしれない。
ぜひ見つけたい。
コメントする