#105 平田オリザと社交ダンス2

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          ≪夕方6時の札幌。もう薄暗い。≫

 

朝早くにパートナーの車に乗せていってもらうので、

仕事も早上がりになりました。
 

夕方6時前に自転車に乗って帰路に。

薄暗くなった札幌の街を、

あわただしく急ぐ人と車が行ったり来たりしています。

ライトを点けている車と点けていない車。
半々ぐらいの割合で、自分の目の前を通り過ぎていきます。
こういう時間に外に出る事がめったにないので、

薄暗さに目が慣れません。

 

こういう時を"薄暮"っていうんだろうか。
事故が多いと言われる時間帯。
 

昔、自動車学校で聞いた言葉を思い出しました。

肩をいからせて歩くすすきのの男の人を追い抜き、

大きな荷物をカタカタと引きずる観光客の間をすり抜け、

心軽やかに家路を急ぎます。


前回から新シリーズ。
 

【演劇の演技】と【社交ダンスの表現】について、

何かを考えていきたいと思います。
 
ひとまず今回は、
 

①"演じている(踊っている)自分"と"演じていない自分(素の自分)"

 

について。

************************************

演技に携わっている人というのは、

大なり小なり、

自分の"演技哲学"みたいなものを持っているんだと思う。
 

"スタイル"と言った方が分かりやすいかも。

その人が、演技をする上で、拠り所にしている価値観、考え方。  

そういうものを持っているはずだ。
 
例えば、
 

       「役になりきるために、

        日常生活を原作の人物像と同じようにする」

という考え。

 

原作の中での人物と同じような雰囲気を醸し出すために、

その人物が食べている物を食べ、信じていることを信じ、

行った所に行ってみる。

体形を合わせるために肉体改造なるものに勤しみ、

髪型も変え、話し方や物の扱い方も変える。

 

そうやって、

その人物と自分を同化させる努力をする。


現実の行動に根拠を与えるような理論的な基盤を、

「演技哲学」が担保しているという構図。


      なぜ、そんなに体を鍛えているの?
      なぜ、そんな服装をしているの?
 
という問いかけに、

 

     「その人物と同化して、実際の演技を充実させるため」
 
という回答を与えることができる。


では。
 
なぜ、演技をするのか?
なぜ、日常の自分とは別の"演技する自分"を持とうとするのか?
なぜ、"演技する自分"と"演技していない素の自分"とはどう違うのか?  

 

そんな疑問がわく。

 

「いかに」演じるか、


ではなく、


「なぜ」演じるか、

についての疑問。

 

こっちの疑問に何らかの答えを持ちたいと思う。
根源的な問いに対して、

ずっと引っかかり続けられるセンスを磨きたいと思う。
 
この問いは、

演技を職業にしている人に限らないと思う。

誰もが人生の中で、

いろんな顔を(役を)演じ分けているはず。
 

以前にも書いた「本当の自分」というものも、

これに関わってくる。
 
           なぜ、演じるのか?

ひとまず。
 

この問いに対して、

平田オリザさんは、考えるヒントを提示してくれる。 

 

彼は、演劇における「リアル」を、

「観客の脳の中で形成される一つのイメージ、幻想」

だと考えている( 『演技と演出』)。

 

つまり、

いかに現実世界に近い演技をしたとしても、

見る側の想像力をかきたてるような仕掛けがなければ、

共感を得られない、ということ。

 

ここからは2つのポイントが見えてくると思う。

 

         ⅰ.見る人に「リアル」を感じてもらうためには、

          工夫(演出)が必要。

         ⅱ.演じる目的は、

          見る側に「リアル」を感じてもらうため。

この2つだと思う。

見る人が「リアル」に感じるということは、
 
目の前で演じられる世界について、

自分の身に引き付けて考えられるということ。
 

自分の経験や価値観と照らし合わせることができるということ。

「あぁ~、こういうことってあるよね~。」と、

現象に対する所感を共有できるということ。

 

見る人に「リアル」を感じてもらう。

見る人自身の物語と、

演じる側の発信する物語をリンクさせる。


演じる目的の1つには、

そういうことがありそうだ。
 

社交ダンスも演技の世界。

 

だから、

自分が人前で踊る目的、理由というのは、

見てくれた人の中に、

何らかの「リアル」を喚起することだと言えるかもしれない。
 
フロア上の自分を通して、

見てくれる人が自身の内部に蓄積された経験や思考の軌跡を

意識の上に上らせる。

そして、

フロアの上にいる自分と、自身をダブらせ、何かを獲得する。

 

画面の向こうにいる俳優、

舞台の上にいる役者、

フロア上のダンサーに対して、

感情移入したり、突き放してみたり、

批判的に見たり、嫌悪感を覚えたり、

何も思わなかったり。
 

そんな交流を通して、

観客は自身の中に埋もれている経験や価値観を改めて見つめ直す。

そこから、具体的な行動を発想していく。

演じる者と観る者との間には、そういう交流があるんじゃないか。

 

そして、

演じる者の内部には、

"演じる部分"と"演じていない素の部分"の2つがあるらしいけど、

少なくとも、

演じる目的(自分の中にある"演じる部分"の存在理由)の1つは、

見てくれる人と交流することだと言えそうな気がする。

 

補足。

 

【演劇の演技】と【社交ダンスの表現】では、

その目的が「観客の内部に「リアル」を喚起する」

という点で共通しているけど、

ちょっと違う点もある気がする。

 

それは。

 

舞台の広さ。

 

演劇の世界にとっての舞台は、

劇場の舞台やテレビ、映画。
 

社交ダンスの世界にとっての舞台は、

フロアだけでなく、この世界全て。
 

のような気がする。

 

「社交ダンス」という世界そのものが舞台というか。
なんか、うまく言えないけど。


観客は、競技会やパーティーのフロア上で

踊られるものを見るだけでなく、自分自身も参加する。


レッスンにやって来る時点で、

社交ダンス用の服を見立て、シューズを見立て、

お化粧もして、パリッとしてやって来る。


まるで、舞台に出演する役者になったように。
 

別に自分が、

競技会やパーティーといった、

しつらえられたフロアで踊らなくても、

「教室に来て踊る」ということが、

舞台に出ている事と同じような意味がある。

 

まとまりませんが、この辺でzzz

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