#144 差し出すということ

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   ≪岩内のお寿司屋さん。特上生ちらし。高いけどボリューミー。最高です♪≫


昨日から天気は荒れ模様。

ぼくは今、おおあさ(大麻!)という札幌の隣町にいます。
札幌から電車で15分ほど。

大麻も雨風の吹き荒れるざわついたお天気。

濡れそぼった車道を駆ける車の音なんでしょう。
ザザー、ザザー、と、
遠くのほうで波のようなしぶき音が聞こえてきます。

こういう日は自転車に乗るのが難しい。
市内に出たら電車のお世話になろうと思います。

さて。

          何かを差し出す。
          何かを犠牲にする。

という行為があります。

          何かを得るために何かを犠牲にする。

というような表現が、
よく耳にする使われ方だと思います。

何かを得るためには何かを差し出さないといけない。

それは、時間であったりお金であったり信用であったり。
それをしなければ、別のことができたかもしれない。 
そういう別の可能性の芽を摘むということなので。

ただ、ぼくは、

この考え方の使われ方というか、
人がこの考え方をどういう場面で使うのか
といったようなことに興味があります。

なぜ、犠牲にしないといけないんでしょうか。
なぜ、犠牲にしないと何かを得られないという考えが、
常識のようになったんでしょうか。
何かを犠牲にしているという自覚がなければ、
何かを得てはいけないんでしょうか。
何か知らないうちにこんなものを手に入れました、
という表現は良くないことなんでしょうか。

そんなことを思います。

こういう考え方と、
どういう距離感を持てば良いんでしょうか。

         そんなの当たり前だ!
         何かを得るためには、
         他の何かを犠牲にしなくちゃいけないんだ!

という態度が最適なんでしょうか。
この態度を、何事に対しても一貫して
持ち続けることが偉いんでしょうか。

ぼくはそうは思いません。

人はもっと器用に生きていると思います。

これだとおおざっぱ過ぎると思います。
何より息が詰まる。

どんな場面にも、
こういう態度をとるのは無理だと思っています。

ある場面では、

        「他の事を犠牲にして、今これをやっているんだ!
         だから何かをつかまなければ!」

という物語を勝手に作り上げて、
その何かを得るための推進力にする。

というストイックモード。

ある場面では、

         もちろん何かを得るつもりで臨むけど
        (いや、そもそも何かを得ようとしている
         ということに無自覚で)、

         基本的には、
        「得られるかもしれないけど得られないかもしれない」
         という姿勢。
      
        「何だかよく分からないけど、そこに行く。
         それに参加する。出費する。」

というユルめのモード。

というふうな使い分け。

無意識にそうやってスイッチを切り替えているはずです。

具体例を挙げてみましょう。

例えば、ダンスのレッスンを受ける時。

このお金を使って、別のことができたかもしれない。
この時間を使って、他の生徒さんにレッスンができたかもしれない。

そんな可能性を犠牲にしてまで、
今自分はレッスンを受けに来ている。
だからこそ、何かをつかまなくては。

というある種の脅迫観念を、
自分で自分に植え付ける。

そうやって「追い込む」ことが、
何かを得るうえで役に立つはず。
そういう前提で物事を発想する。

というストイックモードで臨む場合が主流のようです。

でも。

お金も時間も投入しているけど、
何かを得られるかどうかはその時にならないと分からない。
何かを得られたらラッキーだし、今は得られなくても、
この機会が後になって何かを発想するきっかけになるかもしれない。

と、大きく構える場合もありそうです。

現実にはこの2つのハイブリッドなんでしょう。

いつも同じように臨まなくては一貫性がない、
という意見もありそうですが、

そこは程度問題。
ストイックな面も持っているし、
ゆるめな面も持っている。
そうしないと生きていけません。

ストイックに過ぎれば、自分で自分を責めるし。

今回はこの辺でzzz 

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コメント(2)

豪華なお寿司ですね~!!
さてさて、等価交換。鋼の錬金術師を彷彿する話題ですね。
人生において何かを得て何かを失うことは常だと思っています。
でもそれを知っていることが大事であり、
周囲に態度や言動で主張するのはどうかなぁ。。。

もちろん犠牲にしないように最大限の努力はすべきだとは思うのですが、
最終何かを選ぶときには片方を捨てる(または失う)作業は
伴っているような気がするのです。
考えなくても自然にそうなるんだから、
ストイックにならずにエンジョイ!!ですよ。

ただ、その捨てる物が人であるならば、最初から期待を抱かせてはいけない。
それは礼儀だと思います。時間やお金なら、どうぞお好きに~ですね。

かくいうrenoaも習い事にじゃぶじゃぶ時間とお金を使ってます。
あ、ダンスではないですよ。
そして身には・・・なってないな。
でもそこで出会う人から新たな世界・価値観を頂きました。
違う世界に触れることで心のバランスを整えることができます。

ダンスの先生はある意味リハビリの先生でもあるんじゃないでしょうか?
話を聞いてくれて、その日そのままの自分を受け入れてくれて、一人ぼっちじゃないんだな~と癒される。そこには、たまに勘違いされる方もいそうですね。
あとはダンスの先生自身のリハビリが一番必要かもしれないですねぇ。
がんばってください。

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