ほんわかとのんびりと。
と思ったら、今日はまた大荒れの空模様。
みぞれのように、
固形のものが雨に混じっています。
さて。
体がぼわーっとだるくなってきます。
ここ2,3日、やることがあったので
寝る時間があんまりありませんでした。
なので、すぐ2時間後に起きることを想像して眠りにつき、
がんばって起き、起きてから意識を徐々に高めていきます。
忙しい時ほど、
熱を帯びた体の声を聞くことで、
新しい発見がありそうな気がしています。
感覚について、
最近思うことがあります。
料理番組なんかで、試食する芸能人が、
「うまい!」とか、「まずい!」とか言う場面をよく目にします。
演出の力も相まって、
見ている自分も「うわ、おいしそう♩」とか「これは絶対まずいわ・・・」
といった感想を抱きます。
でも。
本人がどれぐらい「うまい」と思っているのかを、
周りにいる他の人は知ることはできません。
その人にとっての、どのぐらいの「うまさ」かを
他人は感じることができません。
その人の感覚と「全く同じ」感覚を他人は味わうことができない。
そう思います。
これはひとつの真理だと思っています。
いくらコーチャーが言葉を尽くして説明してくれたとしても、
今この瞬間に自分が感じた「踊り心地の良さ(悪さ)」は、
コーチャーが過去に感じた感覚と同じではあり得ません。
似てはいるけど同じではない。
人の感覚とは、決して共有し得ないものであると思っています。
人と同じ感覚は得られない。
そう思っています。
では、なぜ、料理番組を見て
「おいしそう!」とか、「まずそう!」といった感想を抱き、
実際に食べている人の感覚に、
自身の感覚を重ねようとするのでしょうか。
考えてみると不思議です。
テレビの中のリポーターは、
自分と知り合いでもないのに、
ましてや、自分とは全く違う存在であるにも関わらず、
その人の言っている感想を自分のこととして共感し、
あたかも、その人の感覚を追体験しているような気になる。
喜びも悲しみも、怒りも不安も、
他の人と「全く同じ」に感じることができない。
にもかかわらず、自分のこととして感応する。
相手の感覚そのものは自分のものにならないのに、
その感覚を、一部でも自分のものにしようとしなければならないような気がする。
そうしなければ、共感力がないような気がする。
想像することで、その人の感覚の「周辺」を理解することはできるけど、「核」は知ることはできない。
感覚の「核」と呼ばれるものは、その人固有のもので、
決して誰も立ち入ることのできない領域にある。
でも、
共有できないかといったらそうではなくて、
感覚の「周辺」で共有可能。
感覚の共有について、
そんなことが言えそうな気がします。
だから、そのことを前提として次の行動を発想する。
それが大切かと。
自分と他人の感覚は、同一化することができない。
だけど、共有は可能。
この不思議な現象をもう少し言葉にしてみたいと思います。
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